紀伊 猿岡城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①粉河寺より遠望②城址碑③主郭跡④秋葉大権現⑤曲輪跡⑥眺望

 

訪問日2022年3月

 

所在地:和歌山県紀の川市

 

 藤堂高虎は弘治2年(1556)藤堂虎高の次男として生まれた。母は藤堂忠高の養女、7歳年長の同母兄に高則、29歳年少の異母弟に高清らがいる。

 

 父は鯰江城主・三井氏(後に三井財閥を輩出)の出身で、近江を離れて甲斐の武田信虎に仕えたが、近江に戻り藤堂家の婿養子となったという。

 

 兄は永禄12年(1569)大河内城の戦いで、当時織田信長と同盟関係にあった浅井長政の援軍に参陣して討死する(21歳)。元亀元年(1570)長政が信長に叛旗を翻す。

 

 高虎は同年の姉川の戦いで父とともに磯野員昌隊として参陣し15歳で初陣を果たす。元亀3年(1572)同僚を切り捨てて逃走し、父が謹慎となる。

 

 天正元年(1573)浅井氏が滅ぶと、長政旧臣の近江山本山城主・阿閉貞征に仕えるも、またも同僚を殺害し浪人、やがて員昌さらにその養子・信重(織田信澄)に仕える。

 

 しかしこれらも長続きせず、それでも天正4年(1576)員昌の推薦で羽柴秀長に300石で仕え、天正5年(1577)但馬攻めの功で1000石に加増、足軽大将となる。

 

 天正8年(1580)には三木合戦の功により2000石、天正9年(1581)但馬小代一揆平定の功により3000石の鉄砲大将となる。

 

 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで1300石を加増され、天正13年(1585)の紀州征伐で紀伊粉河に5千石を与えられ、猿岡城主となった。

 

 同時に和歌山城の普請奉行に任ぜられ、これが築城の名人・藤堂高虎の最初の築城とされる。さらに同年の四国攻めの功により30歳で1万石の大名となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

ここ秋葉山は、粉河寺本堂の南側にあるので、前山と呼ばれ、山上に猿棚が設けられていたので、猿岡山とも称したと記録されています。戦国末期の天正元年(1573)に、粉河寺僧兵達がこの地に山城を築き、各所に切り通しなどを造って、寺防衛に備えたと伝えられています。同13年3月24日粉河寺一山ことごとく焼亡。同8月、羽柴秀長の家臣藤堂高虎が、紀州四国平定の功によって、粉河近辺1万石の領主に封ぜられて入城、文禄元年に朝鮮出兵のため粉河をさる迄の7年間在城しました。その間粉河寺の再建に努めたり、神輿を寄進して粉河祭りを復活し、自ら随兵役を買って出る等、専ら民心の安定に努めたと言われています。

 文禄以後再び城主を迎える事はありませんでしたが、明和元年(1764)に至って、粉河鋳物師等発起して、犬伏せの神秋葉三尺大権現社を勧請したので、以後秋葉山と呼ばれるようになりました。

 

 

秋葉大権現社由来

 

 当秋葉大権現社は粉河寺に帰属し、明和年中(1764ー72)遠江国(静岡県)周智郡秋葉山三尺坊を勧請し、旧猿岡山、今の秋葉山上に建立したものである。

 本地仏は十一面千手観音と伝えられ、その形像は、右手に剣を立て、左手に索をとり、背には双翼を張り、火焔光を負うて、白狐の背に立ち、顔は、鼻を突き出した烏天狗面である。

 この像は、火伏せの神として、火難、急難を免れ、七難即滅、七福即生を得る神として粉河町民に篤く信仰されてきた。

 平成13年1月吉日多くの町民、関係者の寄付金によって修築改修された。