紀伊 根来寺遺跡 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①階段と通路遺構②同じく上から③半地下倉庫遺構④同じく上から⑤発掘された石造物⑥旧県議会議事堂

 

訪問日:2022年3月

 

所在地:和歌山県岩出市

 

 愛染院長算は天文21年(1552)足利将軍家に仕える紀伊伊都郡の武士・成神長次の子として生まれた。兄に成神貞次がいる。

 

 名前から想像するに根来に鉄砲をもたらした津田算長(1499頃〜1568)やその子である津田算正・杉之坊照算らとの近い関係を想像する。

 

 天正12年(1584)羽柴秀吉が織田信雄・徳川家康との戦いのため出陣した留守を衝き、根来衆は雑賀衆や粉河寺衆徒らとともに和泉へ出撃する。

 

 長算は4歳年少の霜盛重(成真院)とともに根来衆の主将として出陣し、大坂まで攻め上がるが、岸和田城の戦いで敗れて撤退した。

 

 天正13年(1585)信雄・家康と和睦した秀吉の紀州攻めにより根来寺は焼討され、算正・照算らは討死した(生き残ったとの異説あり)。

 

 伊勢に逃れた長算や盛重らは同年、浜松城で徳川家康に面会して登用され、その命により還俗していずれも根来氏を称し、成瀬正成組下に置かれた。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに出陣し、戦後、長算は大和宇智郡に750石を与えられた。慶長19年(1614)大坂冬の陣では徳川義直隊に属して先陣に加わった。

 

 慶長20年(1615)の夏の陣でも根来組の原型ともいうべき根来衆50人を率いて伏見城に入るが、豊臣氏滅亡直後の5月16日に死去した(68歳)。

 

 天王寺の戦いに参戦した盛重は、元和8年(1622)泉州堺の代官となり、寛永2年(1625)には長算が領した宇智郡750石を与えられた。

 

 彼らの組織は、やがて鉄砲足軽100人を配した4組(他に二十五騎組・伊賀組・甲賀組)の百人組の一つに発展した。盛重は寛永18年(1641)86歳まで生きた。

 

以下、現地案内板より

 

 

子院を結ぶ階段と通路

 

 この場所では、上段と下段の子院を結ぶ階段と通路が発見されました。ここに展示しているのは、階段と通路の一部を型取りしたレプリカです。

 階段と通路の横には、石垣にそって溝があります。上段の子院の桝(集水口)に集まった水は、石垣の排水口を通りぬけ、この溝に流れる仕組みになっていました。

 

 

発掘された半地下式倉庫

 

 半地下式倉庫は地面を掘り、地下を利用した倉庫です。中二階があり、その部分は床が深くなっていました。倉庫の中には、油や液体を入れた大甕や

味噌や漬物を入れた桶のほか、米や生活道具がありました。

 ここでは発掘された半地下式の型取りレプリカを展示しています。赤く焼けた範囲は、豊臣秀吉の紀州攻めに伴う火災の跡です。

 

 

根来寺境内の石像物

 

 根来寺境内には、今も中世の石像物が多く残されています。

 これらの石像物は、五輪塔や宝篋印塔、板碑など様々な形をしており、主に供養塔や墓石として用いられました。

 ここに展示しているのは、現地で発掘された石像物の部材です。

 

 

旧和歌山県議会議事堂(一乗閣)

 

日本最古の木造和風建築の議事堂。

明治31年に和歌山市一番丁に県会議事堂として新築。昭和16年に和歌山県農協中央会に委譲・移築され、昭和37年に根来寺境内に2回目の移築を受け、『一乗閣』と命名されました。

今回が、3回目の移築となり、明治時代の建築当時に復元整備されました。