紀伊 国分寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①南門より②塔跡礎石③現本堂(講堂跡)④金堂・経蔵跡など⑤僧房跡⑥復元模型

 

訪問日:2022年3月

 

所在地:和歌山県紀の川市

 

 紀伊国分寺は粉河寺(創建:伝宝亀元年・770)から西に6km余、根来寺(創建:大治5年・1130)からは南東に約3kmのところにある。

 

 神亀元年(724)2月に即位した聖武天皇は、吉野(曾祖父・天武天皇の旗揚げの地)に次ぐ2回目の行幸として同年10月、紀伊に赴いた。

 

 10月5日、平城宮を発ち、7日には玉垣匂頓宮(粉河寺の南東約1.5kmの稲荷神社)に至り、8日に玉津嶋頓宮(和歌山市和歌浦)に至り十有余日留まったという。

 

 神亀6年(729)藤原四兄弟が姉妹である藤原光明子の立后に反対する長屋王を抹殺した長屋王の変が発生し、その後光明子が立后される。

 

 天平9年(737)天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟をはじめ多くの死者(一説に人口の25〜35%や30〜50%)が出た。天皇は同年、国ごとに造像などを命じる詔を出す。

 

 藤原広嗣の乱が起こった天平12年(740)には法華経の写経や七重塔の建立などを命じる詔を出し、乱も終結せぬうちに突然関東(伊勢・美濃)への行幸を始める。

 

 天平13年(741)恭仁宮にて「国分寺・国分尼寺建立の詔」を、天平15年(743)には紫香楽宮において盧舎那仏(大仏)造営を発願した。

 

 国分寺の造営は捗らず、天平19年(747)「国分寺造営督促の詔」により造営体制を国司から郡司に移行させるなど郡司に恩恵を与えて以降造営が進んだ。

 

 紀伊国分寺の創建の記録は残っていないが、天平勝宝8年(756)26ヵ国の国分寺への法具の頒布の記事に紀伊国分寺も含まれている。

 

 平安時代後期まではその存在が確認されているが、中世には確認できる文献はないという。大治5年(1130)の根来寺創建の影響も考えられよう。

 

 現在の紀伊国分寺は寛永4年(1628)に無本寺から根来寺末となり、寛延4年(1751)に藩寺社奉行の直轄下に入ったという。今も根来寺を本山とする新義真言宗である。

 

 

以下、現地案内板より

 

紀伊国分寺塔跡(奈良〜平安時代)

 

 塔の基礎にあたる「基壇」と呼ばれるもので、一辺が16mの正方形をしており、高さは1.2mあります。

 土や砂を突き固めて重ねていく「版築」技法で築かれ、周囲に平瓦を積み上げた「瓦積基壇」という種類のものです。基壇の中心には、塔の芯柱を据えた大きな礎石があり、その周囲に計16個の礎石があります。塔は、礎石の配置から見ると、初層部分の柱間が9.3mで、高さ50mに達する七重塔であったと推定できます。これらの礎石やガラス越しに見える瓦積基壇は、すべて奈良時代そのままのものです。

 

 

紀伊国分寺講堂跡(奈良時代〜江戸時代)

 

 現在建っているのは町指定文化財の本堂で、江戸時代元禄年間につくられたものですが、その下には奈良時代紀伊国分寺講堂の基礎である「基壇」が復原されています。

 発掘調査の結果、奈良時代の講堂は、東西27m、南北14mの大きさの建物と推定され、元慶3(879)年の紀伊国分寺焼失後も、中世以降は同じ場所に数回にわたって御堂が建て替えられ、今日まで国分寺の法灯が伝えられてきたことがわかりました。