大和 櫻井寺(天誅組本陣) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①櫻井寺山門②櫻井寺本堂③首洗いの石手水鉢④天誅組本陣跡碑⑤岡田・井澤墓(常楽院)⑥乾十郎墓(井上院)

 

訪問日:2022年4月

 

所在地:奈良県五條市

 

 乾十郎は文政11年(1828)五條の医師の子として生まれた。4歳にして孟子を諳んじるほどの秀才であったと伝わる。

 

 五條出身の儒学者で、吉田松陰や久坂玄瑞らの師でもある森田節斎(1811-68)や、安政の大獄で獄死した梅田雲浜(1815-59)に学ぶ。

 

 医師となって大坂に出たが、やがて五條に戻り櫻井寺の門前で開業した。一方で吉野川に放流する材木に課税する紀州藩に談判し、これを撤廃させることに成功する。

 

 これが元で文久3年(1863)6月、十郎は紀州藩に雇われた水戸浪士に襲われたが、陸奥宗光の知らせを受けた坂本龍馬に救われたという。

 

 また、吉野川の水を大和平野に疎通させ灌漑設備を整えようと訴えたが、これは叶わなかったものの大和の庶民生活の向上を目指した人だったようだ。

 

 文久3年8月17日の天誅組による五條代官所襲撃で、十郎は代官所の動きを探り、櫻井寺を本陣とする手筈を整えてその襲撃を助けた。

 

 しかし八月十八日の政変の報が19日に届き、天誅組は本陣を阪本に移し、十郎は募兵のため吉村虎太郎とともに十津川郷に入った。

 

 その途上、彼らは賀名生の南朝行宮跡である堀家を訪れている。現在も残る堀家の門には虎太郎の筆による「皇居」の扁額が掲げられている。

 

 しかし9月下旬には天誅組は壊滅した。なお、十郎の身重の妻・亥生も従軍し、陣中で出産しながらも医師の妻として隊士を看病したという。

 

 大坂に潜伏した十郎はやがて捕らえられて京都・六角獄に投獄された。元治元年(1864)7月20日の禁門の変の混乱の中、逃亡を恐れた獄吏により処刑された(37歳)。

 

 

天誅組本陣跡

 

 櫻井寺は、幕末期には五條で有数の規模を誇った寺だった。天誅組は代官所を焼き払った8月17日から、「八月十八日の政変」を受け急いで天辻へ本陣を移す20日(いずれも旧暦)までの間、この寺に「御政府」の看板を掲げ本陣とした。寺には、代官の首を洗ったとされる水盤が残されている。

 

 

乾十郎の墓

 

 乾十郎は、井澤宜庵とともに天誅組に参加した五條在住者の一人である。天誅組が五條に入る際の道案内を勤め、事件後も生き残って大阪に隠れ、偽名を名のって医者をしていたがついに幕府の役人に捕まり、元治元年(1864)に京都六角の牢獄で処刑された。享年37歳。