大和 五條代官所 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①旧代官所跡②新代官所③新代官所長屋門④長屋門番所⑤長屋門裏側⑥鈴木源内墓(極楽寺)

 

訪問日:2022年4月

 

所在地:奈良県五條市

 

 寛政7年(1795)南大和の天領7万石を治める五條代官所が設置され、初代代官として河尻春之(河尻秀隆の次男・鎮行に始まる200俵の旗本)が赴任した。

 

 文久2年(1862)信州中野代官であった鈴木源内正信(700石旗本)が13代五條代官として赴任する。すでに年齢は60歳ほどであったという。

 

 文久3年(1863)8月17日夕、酒宴が催されていた五條代官所を吉村虎太郎ら天誅組が襲撃、降伏と五條の引き渡しを要求されるが鈴木はこれを拒否した。

 

 しかし14名しかいなかった代官所はたちまち制圧され、部下の長谷川岱助・伊藤敬吾・黒澤儀助と居合わせた按摩師・嘉吉とともに殺害された。

 

 天誅組は代官所を焼き払って櫻井寺を「御政府」本陣とし、18日に鈴木や後に自害した木村祐治郎・高橋勇蔵を含む5名の首を洗い梟首した。

 

 19日、八月十八日の政変の報が五條にも伝わり、20日、天誅組は要害堅固な阪本に本陣を移して戦闘を継続するも、9月幕府追討軍に敗れて壊滅した。

 

 後に五條の人々の手で極楽寺に鈴木ら代官所役人の墓所が建立された。巻き込まれた按摩師・嘉吉の墓はどこなのかわからなかった。

 

 元治元年(1864)新たな場所に代官所が再建され、中村一顎が14代代官となった。維新後の明治3年(1870)ここに五條県が設置(翌年に廃止)された。

 

 長屋門が残り民俗資料館として天誅組関連資料が展示されている。また鈴木らが討たれた旧代官所跡には五條市役所があったが、令和3年(2021)11月に新庁舎が完成して移転した。

 

 

以下、現地案内板より

 

天誅組の変と五條代官所

 

 現在五條市役所のあるこの場所に、江戸時代は五條代官所が建っていた。五條代官所は寛政7年(1795)に設置され、宇智郡(今の五條市)を中心に5郡、7万千石余の天領を支配する幕府の出先機関だった。文久3年(1863)8月17日(旧暦)の七つ時(午後4時ごろ)、天誅組はここを襲撃した。

 天誅組は当時先の侍従だった中山忠光を大将とする尊王攘夷の志士たちで、折から朝廷内の尊王攘夷派によって計画されていた。倒幕のための孝明天皇の大和行幸に呼応し、その先鋒になろうとして決起した。

 天誅組は代官鈴木源内を殺害して代官所を焼き払い、支配下の領地を朝廷に差し出すと宣言して、後は孝明天皇の行幸を待つばかりとなったが、突然起きた「八月十八日の政変」によって朝廷内で尊皇攘夷派が排除されると、天誅組は一転して反乱軍にされてしまった。

 天誅組は尊王の志が厚い十津川に立てこもり、そこで兵を集めてなおも抵抗を続けたが、天誅組が反乱軍となった事実が十津川郷士に知れると、彼らも離反して勢力は日に日に弱まり、9月24日の吉野郡鷲家口(今の東吉野村鷲家口)でほとんど全滅した。天誅組の変は、2ヶ月後に起こった生野の変とともに、尊皇攘夷派によって試みられた最初の反幕府武装蜂起であった。そうした意味で、天誅組の変は明治維新のさきがけとなるものであり、五條が明治維新発祥の地と言われるゆえんである。

 

 

史跡公園概略

 

 文久3年(1863)8月、明治維新の魁といわれる天誅組の義挙により、現五條市役所の位置にあった五條代官所が焼き討ちにあい、元治元年(1864)10月、幕府がここに代官所をあらたに建てなおしました。

 明治元年(1868)5月、代官所は奈良県に引き継がれ、明治3年(1870)2月、五條県発足のおり五條県庁となり、その後、警察大屯所や中学校として利用され、明治10年(1877)には五條区裁判所となりました。

 この広場は史跡公園として平成14年(2002)に整備され、また長屋門は、建てなおされた五條代官所の正門の姿を残す歴史的建造物で、天誅組の義挙140年(2003)の記念にあたり修復改修しました。

 

 

鈴木源内の墓

 

 鈴木源内は13代目の五條代官で、天誅組の変当時は60歳ぐらいの温厚善良な人柄だったといわれる。長寿の老人を表彰するなどして領民からよく慕われた代官だったが、文久3年(1863)天誅組によって殺害された。後に地元の人たちによって、5人の部下とともにここに葬られた。

 

 

五條代官鈴木源内と代官所役人

 

 文久3年(1863)8月17日、天誅組に襲撃された五條代官所では、当時の代官鈴木源内と代官所役人長谷川岱助、伊藤敬吾、黒澤儀助および不運にもここに居合わせた按摩師の嘉吉が殺害された。時刻は夕方4時頃、一瞬の出来事であった。また後日、同じく代官所役人の木村祐治郎、高橋勇蔵も命を落とし、最終的に代官所役人の犠牲者は6人となった。

 この事件は、幕末最初の反幕府武装蜂起として特筆される事件だが、平穏な暮らしを続けてきた五條の人々にとっては、まさに突然起こった衝撃的な大事件だった。

 事件終息後、志に殉じた志士と同じく、幕末動乱の犠牲者となった代官所役人の菩提を弔うために、誰とはなしに墓所が建立された。

 墓所には鈴木、長谷川、木村、高橋の4基と黒澤、伊藤が合祀された1基の墓石がある。