摂津 今城塚古墳 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①後円部テラス②後円部と埴輪群③前方部南西隅④南造出⑤前方部内濠⑥遠景

 

訪問日:2021年1月

 

所在地:大阪府高槻市

 

 武烈天皇8年(西暦506年か)暮れに第25代・武烈天皇が子を残さずに崩御し、第16代・仁徳天皇や第21代・雄略天皇らの男系子孫は絶え、皇統の危機を迎えた。

 

 大連・大伴金村や物部麁鹿火らは越前国(古事記では近江国)から第15代・応神天皇の5世の孫という男大迹王(をほどのおおきみ)に白羽の矢を立てた。

 

 そして継体天皇元年(507年か)河内国樟葉宮で即位し、武烈天皇の同母姉・手白香皇女を皇后とした。この経緯により一部で王朝交替説が盛んとなった。

 

 その後もなかなか大和国には入らず、継体天皇5年(511か)筒城宮(京都府京田辺市)、継体天皇12年(518か)弟国宮(京都府長岡京市)に遷った。

 

 継体天皇20年(526か)ようやく磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷り、継体天皇21年(527)九州で磐井の乱が発生し、翌年に麁鹿火が平定した。

 

 継体天皇25年(531か)即位前に生まれた安閑天皇(第27代)に譲位(最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御し、摂津国嶋上郡の三嶋藍野陵に葬られた。

 

 安閑天皇は安閑天皇2年(535か)に、同母弟の第28代・宣化天皇(第28代)が宣化天皇4年(539か)に崩御し、手白香皇女との子・欽明天皇(第29代)が即位する。

 

 継体天皇と女系ながら仁徳天皇以来の血統を継承した欽明天皇から現在の皇統へ続くが、宮内庁が継体天皇陵と治定している太田茶臼山古墳に疑義が持たれている。

 

 太田茶臼山古墳は5世紀中葉の築造と推定され、またその所在は島下郡であることなどから、学術的には今城塚古墳のほうが真の継体天皇陵であることが定説となっている。

 

 今城塚古墳は慶長元年(1596)の伏見大地震による地すべりで墳丘が崩壊するなど荒廃が著しかったため、天皇陵とするのが憚られたという気もする。

 

 おかげでこの古墳は発掘調査が行われ、現在も墳丘まで立ち入りが可能な天皇陵であるとされ、高槻市も歴史館を開館してアピールしている。

 

 なお、発掘調査では城郭として使用された痕跡は見あたらなかったが、今城という名からしても崩壊以前の戦国時代にはそうだった可能性もあるのではなかろうか。

 

 

以下、現地案内板より

 

6世紀の大王墓 今城塚古墳

 

今城塚古墳は6世紀前半につくられた巨大前方後円墳です。学術的には継体大王の陵墓といわれ、二重濠をふくむ全長は354m。大王の権威と力を示すモニュメントとして、淀川流域随一の壮大な規模と威容を誇っています。

10年間にわたる発掘調査では、墳丘内部の大規模な石積や排水溝、石室を支えた基盤工、そして200体以上の形象埴輪が並ぶ埴輪祭祀場など、他に例をみない発見が相次ぎました。また、海路を九州熊本から運ばれた馬門石を含む3種類の巨大な石棺や、金銀で装飾された副葬品などの貴重な出土品がみつかっています。

貴重な歴史遺産・今城塚は、整備事業を通じて恒久的に保存された、市民の学びと憩いの場になりました。わたしたちみんなで大切にまもっていきましょう。