摂津 花隈城② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本丸跡・福徳寺②堀跡か③城跡碑④花隈公園⑤眺望・マリンタワー⑥遠望

 

訪問日:2021年12月

 

所在地:神戸市中央区

 

 荒木元清は荒木重元あるいは村正の子と伝わり、いずれにしても同い年(天文4・1535年生まれ)の荒木村重の従兄弟とされる。

 

 正室は細川晴元の奉行人・田井長次の娘(村重室の母と姉妹)。村重の家臣として花隈城に1万8千石を与えられたとも、大河原具雅の家臣として花隈城にあったともされる。

 

 天正6年(1578)村重が織田信長に叛くとこれに従うが、翌天正7年(1579)長男・渡辺四郎(21歳)と次男・荒木新之丞(19歳)は京都で処刑される。

 

 天正8年(1580)有岡城・尼崎城を逃れてきた村重・村次父子を花隈城に迎えるが、織田方の池田恒興らに攻められ開城、備後国鞆に逃れる。

 

 足利義晴の師範という馬術の大坪流4代目・斎藤好玄に学び、新たに荒木流馬術の祖となり、天正10年(1582)本能寺の変の後、羽柴秀吉に赦されて仕えた。

 

 文禄4年(1595)豊臣秀次事件に連座して流罪となり、後に赦されて慶長3年(1598)秀吉死後は京都に隠棲し、慶長15年(1610)75歳で死去。

 

 3男・石尾治一は秀吉に仕え、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に与して所領を失うも赦され、大坂の陣に徳川方として従軍した。寛永8年(1631)死去。

 

 4男・荒木元満は秀次事件で流罪の後、黒田長政に寄食した。荒木流を継承し、大坂の陣で幕府に召されて徳川忠長に仕えた。5男・荒木平大夫は磐城平藩主・内藤忠興に仕えた。

 

 なお、元満の子・荒木元政は寛永10年(1633)忠長の自害後に旗本となり、上総に1500石を領した。元政の孫・荒木政羽は元禄14年(1701)の赤穂事件に関わっている。

 

 事件直後には収城目付として赤穂城の接収を、討ち入り後の元禄16年(1703)には上使目付として大石良雄らへの切腹処分申し渡し、検死役などを務めている。

 

 

以下、現地案内板より

 

碑・「東郷の井」由来

 

明治維新以降の近代化の道をすすむなか、神戸小野浜造船所において初代戦艦大和が建造(1883/11/23起工)されました。まだ川崎造船所や三菱造船所はなかった時代です。建造監督官として東郷平八郎が就任して、進水(1885/5/1)から就役(1887/11/16)までの概ね一年間、花隈の神港倶楽部に滞在していました。

戦艦大和が進水すると初代艦長(1886/5/10)に就いています。

ロシア・バルチック艦隊に勝利(1905/5/27)して、世界の海軍提督と称賛されたことから神港倶楽部が、神戸滞在中に東郷平八郎が毎日朝夕に使用していた井戸を、記念して石碑「東郷の井」を建立(1930/5/19)したのです。

命名を当時の海軍大将・財部彪、書を海軍中将・小笠原長生が揮毫しています。

井戸は、花隈町7ー16の今では歩道となっているあたりです。

花隈町の歴史やできごとを伝えるべく、石碑を移設して保存しています。

 

2015年5月10日

 

神港倶楽部は、1896年11月25日から12月1日の間、日本初の映画上映をしています。