神戸 生田川 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①ロープウェイより雄滝

神戸布引ロープウェイは平成3年(1991)開業

②ロープウェイよりダム

新神戸駅直結のハーブ園山麓駅とハーブ園山頂駅間にこれらの絶景が見える

③布引ダム

布引五本松ダム:コンクリートダムだが型枠用の石積をそのまま残した外観

④布引貯水池

総貯水容量:417,000㎥の水道専用ダム

⑤布引ダム

近代化遺産「布引水源地水道施設」として平成18年(2006)国重要文化財指定

⑥谷川橋

下の現地案内板より参照、これも平成18年国重文指定

⑦布引雄滝

那智滝・華厳滝とともに日本三大神滝とされ、雄滝の高さは43m。

⑧砂子橋

国重文、明治30年(1897)頃、導水管を渡すために建設され、現在も機能している

⑨砂子橋下の断層

下の「断層に沿って流れる川」参照

⑩史跡旧生田川碑

フラワーロードと山手幹線の交差点に設置されている

 

 

訪問日:2021年12月

 

所在地:神戸市中央区

 

 加納宗七は文政10年(1827)酒造業や廻船業を営む紀州藩御用商人・宮本家の子として和歌山城下に生まれた。加納の姓は結婚後に使用している。

 

 紀州藩士・陸奥宗光らの尊王攘夷運動に加わり、慶応3年(1867)坂本龍馬らが暗殺されると、紀州藩の佐幕派・三浦休太郎が関与していたとの情報をもたらす。

 

 当時、海援隊は海難事故を巡り紀州藩と争っていた。同年、宗光ら海援隊や陸援隊などは三浦や警護の新撰組を襲撃するが未遂に終わる(天満屋事件)。

 

 宗七は追手から逃れて開港直後の神戸に移住し、外国事務役所の材木用達、その後は宗光の引き立てで紀州藩の開物局神戸支店の頭取や廻船業などを営んだ。

 

 当時の生田川は現在のフラワーロードを流れており、氾濫するとその右岸下流に設けられた外国人居留地に大きな被害をもたらすことが予想された。

 

 明治4年(1871)明治新政府から生田川の付け替え工事を請け負い、約800m東側に付け替える工事を3ヶ月で完了させた。

 

 その埋立地などの払い下げを受けて区画整理を行い、幅18mの1600mの道路と、その東西に街区を整備した。明治6年(1873)その西側は宗七に因み加納町と名付けられた。

 

 また同年、私財を投じて生田川河口に避難港を建造した。これは加納港と呼ばれたが、大正4年(1915)神戸港の大修築工事により消滅した。

 

 明治20年(1887)満59歳で没、加納町6丁目の東遊園地には昭和56年(1981)その功績を讃えるモニュメントが建設され、銅像が設置されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

布引貯水池は神戸水道誕生の地です。

 

1900年4月、神戸水道は日本で7番目の近代水道として給水を開始しました。

布引貯水池五本松堰堤は、創設時に建設されましたが、日本最古の重力式コンクリートダムとして、世紀を越えて、現在も変わらず神戸市民の生活を支え続けています。

2006年に「布引水源地水道施設」の一部として国の重要文化財に指定されました。

 

【神戸水道に尽力した偉人達】 W.K.バルトン(1856〜1899)

1887年イギリスから来日し、内務省衛生局雇技師兼工科大学講師となった。

バルトンの1893年の設計により、1900年に神戸市に近代水道が布設された。

その後、名古屋市・広島市等の日本各地の上下水道布設に尽力するとともに、佐野藤次郎始め、多くの日本人技術者に影響を与えた。

 

 

国指定重要文化財 谷川橋  大正初期

 

 鉄筋コンクリート製の橋で、2本のアーチ形の桁が特徴的です。この橋桁に使われている鉄筋は、折り曲げるなど工夫がなされており、当時としては新しい技術が使われています。

 

神戸市中央区役所 神戸市教育委員会

 

 

断層に沿って流れる川

 

 橋のまん中に行ってみましょう。この橋の下の川は西から東へ流れています。上流は右(北)に曲がっています。なぜ流れがこんなに急に変わっているのでしょうか。

 下をのぞいてみましょう。水の流れているところは少し掘り込まれています。これは大地がずれ動いてできた断層です。岩がつぶされてやわらかくなり、水にけずりとられやすいからです。

 上流ではこの東西方向の断層と、雌滝を通る南北方向の断層が交わり、そこでは流れが大きく北に変わっています。

 

神戸市建設局公園砂防部森林整備事務所