摂津 花隈城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①花隈城跡

イメージ 2②花隈城跡

イメージ 3③天守閣址福徳寺

イメージ 4④天守閣址之碑

 

訪問日:2001年3月(①②③) 2011年10月(④)

 

所在地:神戸市中央区

 

 荒木氏は波多野氏の一族とされ、荒木村重は摂津池田氏の家臣義村の子として生まれ、主君池田城主・池田長正の娘を娶って一族衆となった。

 

 永禄6年(1563)長正が亡くなると、9歳の嫡子・知正は若年のため、養子・勝正が当主になる。勝正は、永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁して上洛するとこれに最後まで抵抗するが敵わず降伏する。しかし、信長は勝正に加増の上、所領を安堵した。

 

 元亀元年(1570)村重は16歳になった知正とともに勝正を追放して織田氏から三好三人衆に寝返った。翌元亀2年(1571)白井河原の戦いで、中川清秀らとともに茨城重朝や和田惟政らを破り、摂津で一目置かれる存在となった。

 

 信長と義昭が対立するようになると知正と袂を分かち、織田氏に仕えて天正元年(1573)茨木城主となり、若江城の戦いで功を挙げ、義昭が追放されると知正も摂津を追われるが、やがて信長に降伏して村重の家臣となり、主従が完全に入れ替わった。

 

 天正2年(1574)摂津伊丹氏の伊丹城を攻略して城主となり、有岡城と改めて摂津一国を任され、以後も信長に従い戦功を挙げるが、天正6年(1578)村重は突如信長に叛旗を翻す。

 

 

 以下、現地案内板より(原文ママ)

 

花隈城跡

 

 花隈城は、永禄10年(1567)織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段として、この土地に摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。のち天正6年(1578)村重が信長にそむいたとき、花隈城は池田信輝らに攻められて、天正8年(1580)8月2日ついに落城した。
 城の地点は海に面して突き出たハナクマの名の通りの台地で、海陸の要害地である。城の規模は古図によると、本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設け、二の丸、三の丸と北に続き、その東に侍町と足軽町があり、近世城郭の形態を完備した偉容を示していたと伝えられるが、建物の構造などは詳しくわからない。城の西には花隈町があった。
 現在の地形では大体東は県庁、西は善福寺(モダン寺)、南は国鉄高架線、北は市電山手線の区域で、東西約350メートル、南北約200メートルであったと思われる。

 

昭和44年3月