備後 草戸稲荷神社/草戸千軒町遺跡 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①草戸稲荷神社②草戸稲荷神社③草戸千軒町遺跡④所在地図⑤歴史博物館ジオラマ

 

訪問日:2021年8月 2005年1月(⑤)

 

所在地:広島県福山市

 

 草戸千軒町は芦田川河口の三角州に鎌倉時代から室町時代にかけて港町として、また明王院(当時は常福寺)や草戸稲荷神社の門前町としても栄えたと考えられている。

 

 貞和5年(正平4・1349)足利直冬が鞆→「草津」→尾道と移動、また観応2年(正平6・1351)には上杉朝定が「草井地」を出て高師泰らを追撃した(太平記)。

 

 このクサヅ・クサイヂが草戸千軒の古名とされる一方、明徳2年(元中8・1391)『西大寺諸国末寺帳』には「草土常福寺」との記載がある。

 

 他にも「草出」や「草出津」などという記載が見られるが、天正19年(1591)の小早川隆景の書状以降は「草戸」で落ち着いたようだ。

 

 江戸時代の中頃に福山藩士・宮原直倁による地誌に「寛文13年(1673)の洪水で滅びた」との記載があり、草戸の町は川の中に埋もれてしまった。

 

 ところが昭和36年(1961)から始まった発掘調査の結果、草戸は13世紀半ばに成立し、16世紀初頭には衰退した集落であることがわかった。

 

 多くの施設が人為的に埋められており、町の消滅は自然災害ではなく、政治的あるいは社会的要因の可能性が高いという。

 

 理由は明らかではないが、草戸を支配していた備後渡辺氏の動向(渡辺兼が草戸から移る)や草戸の港としての機能の変化(地形の変化)などが考えられそう。

 

 しかし常福寺は鎌倉時代末期以来の本堂、南北朝時代からの五重塔を伝えており、その門前に何もなかったというのも不思議な話である。

 

 

以下、現地案内板より

 

草戸千軒町遺跡について

 

法音寺住僧が名付けた草戸千軒

 法音寺住僧弘伏が寛永16年(1639)に、福山藩主水野勝成に「農民が草戸村は在家千軒で、大風雨の時大汐が満ちて寺院と民家が悉く流れたと言っている」と提出した。これが「草戸千軒」の一番古い記録である(吉田彦兵衛(1653〜1732)編纂「水野記」)。

 

草戸千軒の発掘とその意義

 草戸千軒の発掘は、考古学史に新しい段階を築き、日本の考古学史を彩ることになった。以前の考古学は、縄文時代、弥生時代、古墳時代を主に研究していたが、草戸千軒の発掘は中世を対象にし、日本の中世発掘のきっかけをつくり、京都や鎌倉をはじめ全国各地で中世都市遺跡の発掘が始まった。川の中にある遺跡を本格的に発掘する、しかも、中世の一つの町全体を発掘するという、日本の考古学では例のない発掘であった。

 

発掘調査の経緯

 (省略)

 

発掘調査の成果

 草戸千軒は柵と堀に囲まれた町で、出土遺物から見て、鎌倉時代後半の13世紀中ごろに集落の形成がはじまり、室町時代後半の16世紀初めごろに消滅した町と考えられる。遺構の変遷は①数少ない鎌倉時代の遺構は常福寺(現明王院)に近い中央部西側中州で建物などを集中的に検出している。町は東に拡張されており、②室町時代前半期は中州全域で遺構の数が急激に増え、町が発展していく様子がうかがえる。③室町時代後半期には中州の北部から中央部にかけて町割りが明らかになり、一方、中州の南部でも大規模なまちづくりが行われたことがうかがえる。④室町時代末期以降になると、遺構はほとんど見られなくなり、町が急激に衰退していったことがわかる。検出している遺構の大半は、寛文13年(1673)の洪水以降に作られたため池や杭列であり、町として機能していなかったことが知られる。

 日常生活用具や信仰生活を語る木簡などの遺物、農具、工具、漁具などとともに商業生活を示す木簡などの遺物の出土から、この集落が庶民の町であったことが分かった。特に、備前焼・亀山焼など近隣(岡山県)の焼き物から瀬戸焼・常滑焼など遠隔地(愛知県)の焼き物、また中国の竜泉窯の青磁や景徳鎮窯の白磁が出土し、物資の流通・集散を兼ねた港町でもあったことも推定できる。

 

広島県立歴史博物館の設置

 貴重な遺物を永久保存するため、昭和49年(1974)に福山市が広島県に資料館(明王院敷地)、昭和51年(1976)に博物館建設の陳情を行う。平成元年(1989)3月に建物が福山市西町に完成し、同年11月に草戸千軒町遺跡の出土遺物を中心とした広島県立歴史博物館を開館した。