伊豆 山木判官邸 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①山木判官邸跡

 

訪問日:2015年11月

 

所在地:静岡県伊豆の国市

 

 山木兼隆は桓武平氏大掾氏流の平信兼の子で、生年は不詳。兄弟に平兼衡・平信衡・平兼時、子に山木兼光・山木兼盛がいる。

 

 検非違使別当・平時忠(平家にあらずんば、、で有名)のもとで検非違使少尉(判官)を務めていたため後に「山木判官」とも呼ばれる。

 

 しかし治承3年(1179)経緯は不明ながら父の訴えにより罪を得て、右衛門尉を解任されて伊豆国山木郷に流罪となったことが兼隆の運命を変える。

 

 同年、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河法皇の院政を停止する事件が起き、治承4年(1180)5月には伊豆を知行する源頼政の擁する以仁王が挙兵する。

 

 敗死した頼政と息子の伊豆守・源仲綱に替わり、6月には時忠が伊豆知行国主、その猶子である平時兼が伊豆守に任命され、懇意である兼隆が伊豆目代に任ぜられる。

 

 しかし、8月に以仁王の令旨を受けた源頼朝が挙兵、真先に兼隆の館を急襲した。兼隆は何の抵抗もできないまま加藤景廉に討たれた。

 

 『曽我物語』などでは北条時政が娘の政子を兼隆に嫁がせようとしたが、政子が頼朝のもとに逃れたとされ、また頼朝が兼隆に「私の意趣がある」と発言している。

 

 しかし頼朝・政子の長女である大姫が治承2年(1178)生まれと思われるところから、頼朝の意趣とは頼政・仲綱父子の仇討という意味合いでなかったかと思われる。