備後 中道山 明王院 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①境内②五重塔と本堂③国宝五重塔④国宝本堂⑤庫裏・書院⑥山門

 

訪問日:2021年8月

 

所在地:広島県福山市

 

 本堂・五重塔の2基の国宝建築物を擁する真言宗大覚寺派明王院は寺伝によると、その前身の常福寺の創建は大同2年(807)空海によるとされる。

 

 昭和の解体修理で本堂にて「元応3年(1321)沙門頼秀」との墨書銘が発見され、五重塔には同じく「貞和4年(1348)沙門頼秀」との陰刻銘が存在する。

 

 沙門頼秀とは長和庄の地頭で備後長井氏の庶流・長井頼秀のことと思われ、常福寺の創建はこの頼秀によるものとの説が有力となっている。

 

 長井氏は大江広元の次男・長井時広が承久2年(1221)備後守護職となり、その次男・泰重が備後の他に備前・周防の守護職を得て備後長井氏の祖となった。

 

 系図ではその後、頼重ー貞重ー貞頼と続くが、貞頼の年代がやや不自然な気がする。頼秀の子にも貞頼という人がおり、あるいは同一人物かも知れない。

 

 貞頼の子・貞広は北朝の九州探題・今川了俊に従って九州を転戦したが、永和元年(天授元・1375)筑後で討死した。

 

 長井氏の家督は養子で同族の毛利元春(元就6世の祖)の5男・広世が継いだが、後に実父から与えられた安芸福原村に本拠を移し、福原氏の祖となって備後から去った。

 

 時は移り、明暦2年(1656)頃、福山藩3代藩主・水野勝貞は城下の明王院を常福寺に合併させ、寺名を明王院に改めた。

 

 

以下、現地案内板より

 

明王院縁起

 

明王院は大同2年(807年)弘法大師の開基と伝えられている。

古来当寺は観音応現の霊場として信仰された。

平安時代より江戸時代に至るまで、この寺の山下には、門前町として繁栄した草戸千軒という港町があり、遠くは朝鮮、中国、南方諸国とも貿易した。

江戸時代初期までは、西光山理智院常福寺と称した。

本堂(観音堂)は鎌倉時代末、元応3年(1321年)の建立で和様を主とした折衷様式の現存中最古級の建物である。

昭和39年国宝に指定された。

五重塔は南北朝時代の貞和4年(1348年)の建立で純和様である。

現存五重塔中5番目に古い貴重な塔である。

昭和28年国宝に指定された。

その他、山門、庫裏、書院、護摩堂、鐘楼、五輪塔、七重石塔等の文化財指定物件がある。

庭園は、江戸時代初期に作庭された平庭としては見るべきものがある。

なお、本尊十一面観世音菩薩像は、平安時代 伝教大師 最澄の作と伝え、重要文化財に指定されている。

 

平成27年9月吉日 明王院現住 弘雄敬白

平成27年9月23日 縁起板修復 福山中央ライオンズクラブ