備中 妹尾陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①陣屋門跡②陣屋門跡③井戸覆屋④井戸⑤絵図

 

訪問日:2021年8月

 

所在地:岡山市南区

 

 妹尾戸川家は庭瀬藩2代藩主・戸川正安の3男である戸川安成が、寛文9年(1669)妹尾に1,500石を分知されて成立した。

 

 2代目の正方(宗家・戸川逵冨の3男)には嗣子が無く、寛保元年(1741)養子で旗本御使番・八木主馬補頼の次男・逵和が22歳で家督を継いだ。

 

 逵和は明和3年(1766)従五位下・山城守に叙任され、日光奉行・小普請組支配を経て、63歳となった天明2年(1782)御三卿の一つ田安徳川家の家老となる。

 

 田安徳川家は、安永3年(1774)に2代・治察が22歳で死去して以来「明屋形」となっており、生母の宝蓮院(近衛家久の娘・知姫)が当主を代行していた。

 

 当時17歳の異母弟・賢丸(松平定信)は相続が許されず、白河松平家の養嗣子となり、天明3年(1783)家督を継いだ。天明6年(1786)宝蓮院が死去する。

 

 天明7年(1787)6月に定信は老中上座に就任、同月には一橋治済の5男・斉匡が田安徳川家に入り、十数年ぶりに明屋形が解消された。

 

 同年、逵和は田安徳川家を辞し、定信のもとで大目付に任ぜられ、その後小姓組番頭を経て、72歳の寛政3年(1791)からは書院番頭を務めた。

 

 寛政9年(1797)78歳で死去、長男の逵旨が家督を継いだ。また次男・岡部一元、3男・阿部正朗もそれぞれ養家の家督を継いでいる。

 

 

以下、現地案内板より

 

旗本・妹尾戸川家陣屋跡

 

 江戸時代、妹尾地区は旗本・妹尾戸川家の知行地で、ここに陣屋がありました。備中庭瀬藩第2代戸川正安の子安成が寛文9年(1669)1,500石で妹尾に分家したのが旗本・妹尾戸川家の始まりです。その後8代逵利まで続いて明治維新を迎えました。

 旗本の当主(殿様)は江戸詰めで、徳川幕府の役人として仕事をしましたが、妹尾戸川家の当主の中には、大目付など非常に高い地位にまで出世した人もいます。

 一方、妹尾のこの陣屋は家臣が地域の政務を司る役所として機能していました。道路から陣屋に入る所には石橋と陣屋門がありましたが、明治の廃陣後、陣屋門は笠岡に移され、現在、笠岡小学校の正門として使われています。石橋は県立興陽高校等に移設されています。また、陣屋内にあった井戸の一つがここにある「陣屋の井戸」で、陣屋廃止後、地域の人たちの共同井戸として使われ、昭和47年には岡山市有形民俗文化財に指定されています。

 

(看板提案:妹尾・箕島を語る会)岡山市

 

 

岡山市指定重要有形民俗文化財

戸川陣屋井戸

 

 この井戸は、妹尾の旧領主(戸川氏)の陣屋にあった井戸。明治になり陣屋が廃止された後も飲料水の不足に悩む土地の人々が利用してきたもので、当時の形態をよく伝えている。妹尾の土地柄を知る文化財として、昭和47年3月24日岡山市指定有形民俗文化財に指定された。

 井戸は覆屋と井筒とで構成されている。覆屋は、四本柱(栗材)に入母屋造り瓦葺きの屋根を載せた単純な建物。柱は長辺2.82m、短辺2.62mとやや長方形に配置されている。

 井筒は、花崗岩の切石を一辺1.22mの正方形に組み合わせて築かれている。また、柱間には延石を敷き詰め、腰高の礎石とともに水回り良くしつらえている。

 昭和56年度に覆屋の解体修理が実施され、その時、東南の隅柱の柄に次の墨書銘が発見された。

(銘文)

 安政四丁巳年 十月ヨリ霜月迠 相調之

時徥

 大工棟梁 富岡藤治  助大工 塩飽嘉右衛門  同撫川手子 伊平次

(銘文大意)

 安政4年(1857年)10月から11月までの期間でこれを築いた。

 大工棟梁富岡藤治のもとに、主として塩飽嘉右衛門が製作し、撫川の住人伊平次がこれを手伝った。

 

平成7年9月29日 岡山市教育委員会