備中 撫川陣屋(旧庭瀬城二の丸) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①撫川知行所総門②本丸西南隅石垣③本丸西北隅石垣④本丸西面⑤本丸東南隅土塁⑥井戸

 

訪問日:2021年8月

 

所在地:岡山市北区

 

 戸川逵安は永禄10年(1567)宇喜多氏家臣・戸川秀安の嫡男として生まれた。母は石川晴清の娘、兄弟に正安・勝安、姉妹に坂崎直盛(宇喜多詮家)正室がいる。

 

 天正7年(1579)宇喜多直家が毛利氏から織田氏へ離反を決意、小早川隆景を総大将とする毛利勢が備前辛川に攻め寄せる。

 

 逵安は宇喜多忠家(詮家の父・乳母は秀安の母)とともにこれを迎え撃ち、毛利氏が「辛川崩れ」と呼ぶほどの初陣を果たし、大勝した。

 

 天正9年(1581)直家の死後、父から家督を譲られて備前常山城主となる。天正10年(1582)備中高松城攻めでは冠山城などを攻略した。

 

 その後も小牧・長久手の戦い、紀州征伐、四国征伐、九州征伐、文禄・慶長の役といった羽柴秀吉の戦いに宇喜多勢の主力として活躍した。

 

 特に天正15年(1587)九州征伐における根白坂の戦いでは勇猛で知られる島津氏に対して一番討ちの大功を挙げ、島津氏は島津忠隣(日置島津家2代)らを失った。

 

 宇喜多氏は直家の跡を継いだ宇喜多秀家を父・秀安と長船貞親(逵安正室の父)・岡家利(逵安後室の父)といった宇喜多三老が後見する体制であった。

 

 天正19年(1591)貞親が暗殺され、文禄元年(1592)に元忠が朝鮮で病死するなど世代交代が進み、逵安や長船紀伊守、岡越前守らの嫡男たちが政務を担うこととなる。

 

 しかし文禄3年(1594)逵安は遠ざけられ、また秀家の正室で前田利家の4女・豪姫に付いてきた中村家正が秀家の信任を得るようになる。

 

 慶長4年(1599)紀伊守が急死し、中村が中心に政務を引き継ぐと、逵安や詮家・岡らの不満は爆発し、慶長5年(1600)宇喜多騒動となる。

 

 徳川家康が調停に入って逵安らは宇喜多氏を退去、彼らは後に家康に仕えて同年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後逵安は庭瀬に3万石を与えられる。

 

 大坂の陣にも参陣して戦功を挙げた。寛永4年(1628)62歳で死去、次男・正安が家督を継ぎ、3男・令安、4男・安尤、5男・安利は旗本として分家した。

 

 

以下、現地案内板より

 

岡山県指定史跡 撫川城跡

 

 撫川城は泥沼の地に築かれた典型的な「沼城」です。城の平面形状は、東西77m、南北57mの長方形を示し、幅15mの濠がぐるりを巡っています。西半に高さ4m強の高石垣(野面積み)と東半には土塁が現存しています。また北西隅には、櫓台と思われる石垣の張り出しが見られます。

 この城は永禄2(1559)年に備中成羽城主三村家親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。備中高松の役(天正10[1582]年)には毛利方の国境防備の城「境目七城」の一つとなり、当時の城主井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。

 戸川氏は安風(4代目)で断絶しますが、その弟達富が撫川領分を継ぎ「庭瀬城」の本丸・二の丸に知行所を設けました。撫川城跡と庭瀬城跡とに呼び分けられていますが、もともとは一体の城だったのです。

 なお、入口に現存する門は、撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられています。

 昭和32(1957)年5月、県の史跡に指定されました。

 

平成9年3月 岡山市教育委員会