訪問日:2021年8月
所在地:岡山市北区
備中国賀陽郡庭瀬城(撫川城)は備中成羽城主・三村家親が永禄2年(1559)に築き、天正3年(1575)三村氏が毛利氏に滅ぼされ、井上就正らが入った。
毛利氏の境目七城の一つであったが、天正10年(1582)羽柴秀吉の備中高松城攻めの時に落城し、廃城となった。
慶長6年(1601)備中国都宇郡・賀陽郡のうち3万石を与えられた戸川逵安は庭瀬城二の丸跡(現在の撫川城跡)を中心に庭瀬藩の政庁として庭瀬陣屋を構築する。
延宝7年(1679)4代藩主・戸川安風が早世して戸川氏は断絶するが、弟の戸川逵富が5千石で宗家の名跡を継ぎ、政庁は引き続き現在の撫川城の地にあった。
天領を経て、天和3年(1683)久世重之が5万石で庭瀬藩主となり、旧庭瀬城本丸跡(現在の庭瀬城跡)に政庁として新庭瀬陣屋を構築した。
逵富はこの時の領地替えにより庭瀬を召し上げられ、小田郡や川上郡に替地を与えられたが政庁の場所はそのままで、恐らくこの時に撫川陣屋と呼ぶことになったのであろう。
こうして久世氏1代、藤井松平氏1代、板倉氏11代の庭瀬藩主の庭瀬陣屋と逵富以降の交代寄合・戸川宗家の撫川陣屋はほとんど隣接して明治まで存続する。
以下、現地案内板より
庭瀬城跡 岡山市庭瀬
室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。付近の地名から芝揚城とも呼ばれた。一帯は泥沼地でひじょうな難工事であった。その後宇喜多の重臣戸川肥後守達安がはいり(1602)古城を拡げ城下町をととのえた。
元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。
寛政5年(1793)板倉勝喜は城内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り歴代の遺品を収蔵した。(遺品は現在、吉備公民館に収蔵)