備中 岡田陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①土塁②岡田陣屋跡③岡田陣屋跡④岡田陣屋跡

 

訪問日:2021年8月

 

所在地:岡山県倉敷市

 

 慶長20年(1615)伊東長実が岡田藩1万石の初代藩主となると、領内の入会山(共有林)を順次藩有化(留山)し始めた。

 

 新庄村・本庄村内では3代藩主・長治の寛文元年(1661)頃から留山が始まり、5代藩主・長救の享保元年(1716)頃には入会山の大部分が留山となった。

 

 さらに藩は村民らに低賃金で留山の樹木を伐採し用木として岡田陣屋までの運搬を命じた。これに対し村民ら203名が会合を開き、山の返還と賦役の中止嘆願を決議する。

 

 享保2年(1717)1月村民側は三箇条の嘆願書を藩に提出、蔵鏡寺住職らの仲裁により4月に一部の山を制限付きで開放することで調停が成立した。

 

 しかし同年9月、藩は許可していない樹木の伐採を疑い取り締まりを強化、12月にこれが発覚し、藩は享保3年(1718)捜査を開始する。

 

 同年2月、藩は討伐の疑いで村民51名に出頭を命じるも誰一人として出頭せず、両者の対立は激化して庄屋が投獄される事態となった。

 

 村民側は江戸の藩主・長救への直訴を決め、松森六蔵(77)、荒木甚右衛門(44)、森脇喜惣治(36)、川村仁右衛門(44)が逃散を装い江戸に旅立った。

 

 同年3月、4人は直訴に成功し、嘆願要求はほぼ実現されることとなった。5月、帰国した4人は投獄され、6月、村民らの前で打首の刑に処された。

 

 4人の家族も財産没収・家屋取り壊しの上、国外追放となった。4人は新本(新庄・本庄)義民四人衆として手厚く葬られ、現在も両村(現在は総社市)に墓が残るという。