備中 早島陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①石橋②堀と石橋③堀と石橋④絵図

 

訪問日:2021年8月

 

所在地:岡山県都窪郡早島町

 

 戸川安宅(雅号・残花)は安政2年(1855)旗本早島戸川家12代・戸川安行(安宅誕生前に死去)の子として生まれた。12歳年長の兄に13代・戸川安道。

 

 慶応元年(1865)長州征伐で病気の兄の名代として出陣、慶応4年(1868)3月にも名代として京都の太政官に懇願書と岡山藩主の添書を提出する。

 

 同年5月に本領は安堵されたが、14歳の安宅は同月彰義隊に参加して上野戦争を経験している。6月、一族とともに所領の早島に移り住む。

 

 同年8月、兄の養嗣子となり家督を継ぐ。早島戸川家の財政は事実上破綻していたが、明治2年(1869)の版籍奉還により借金からは解放される。

 

 所領を失って明治3年(1869)江戸に戻るも、江戸屋敷も接収され大隈重信邸となっていたため、新政府に与えられた代替屋敷に住み、大学南校・慶應義塾に学ぶ。

 

 明治7年(1873)アメリカ人宣教師デイヴィッド・タムソンより洗礼を受け、ミッションスクール・築地大学校に学び、明治16年(1883)からは関西方面で伝道に従事する。

 

 その後帰京して日本基督教会麹町教会の牧師となり、明治23年(1890)の日本の子供向け創作童話の草分けの一つ『猫の話』やキリスト教関係の書籍・冊子を多く著した。

 

 特に明治26年(1893)『文學界』の中で発表した詩「桂川(情死を吊う歌)」は北村透谷(翌年に25歳で自死)に絶賛された。

 

 また、評論家としても、明治30年(1897)旧幕府側の立場からの記録を残すため勝海舟・榎本武揚らの支援を受け月刊誌『旧幕府』を発刊、4年間・通算48号を刊行した。

 

 明治34年(1901)山口県士族の成瀬仁蔵とともに、日本女子大学校の創立に参画、国文学の教授となった。また、紀州徳川家の南葵文庫の主任学芸員も務めた。

 

 大正12年(1923)関東大震災で自宅が倒壊し、長男のいた大阪に移り住むが、大正13年(1924)70歳で死去した。 

 

 

以下、現地案内板より

 

町指定重要文化財 

史跡 早島戸川家陣屋跡(昭和40年8月31日指定)

 

 戸川家は、家祖達安の父秀安(友林と号す)の代から宇喜多家に仕え、備前児島の常山城を預かるなど、宇喜多家の重臣としてその役を担ってきた。しかし、達安の代になって宇喜多家のお家騒動から達安は遠ざけられ、徳川家康に預けられた。その縁で関が原の合戦には東軍として参戦し数々の武勲を立て、その功によって29,200石を与えられ、備中庭瀬に居城を構えた。

 ここ早島は、江戸時代の初め1631年(寛永8年)に達安の次男安尤が3,400石で封じられて以来13代・安宅の代まで、干拓によって開かれた豊かな土地といぐさ産業を背景に、旗本戸川家の陣屋町として発展してきた。

 さてこの陣屋は元禄年間、2代安明の代に普請にとりかかり17年の歳月を費やして1709年(宝永6年)に完成した。陣屋は敷地全体が堀と塀によって囲まれ、東西約65m、南北約120m、約7,800㎡(約2,500坪)の広さを有し、その中には役人たちが仕事をする役所や裁判を行う白洲をはじめ、道場や年貢を納める米蔵などが置かれていた。また、主だった家臣たちの住居も敷地内に定められ、陣屋の裏山には家祖の戸川達安を祭る達安大明神の社もあった。

 しかし、この陣屋も明治の初めごろ取り壊され、現在ではここにある堀の一部と石橋、陣屋の飲料水として使われた井戸などを残すのみとなったが、旗本領の陣屋の遺構として貴重な史跡である。

 

早島町教育委員会 早島町文化財保護委員会