丹後 国分寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①寺跡と天橋立②塔跡③金堂跡④寺趾碑⑤現・国分寺⑥案内板より

 

訪問日:2021年5月

 

所在地:京都府宮津市

 

 等楊は応永27年(1420)備中国赤浜の小田氏という武家に生まれ、幼くして地元の宝福寺、後に京都相国寺に入り、山水画の巨匠・天章周文に学んだ。

 

 享徳3年(1454)頃に守護大名・大内教弘に招かれ周防に移り、やがて雪舟と号するが、同時代に周防で活躍した拙宗等楊は雪舟と同一人物ともいわれる。

 

 応仁2年(1468)大内氏が幕府・細川氏とともに船主となった遣明船で明に渡り、本格的な水墨画に出会い、中国各地の風景を写生した。

 

 文明元年(1469)に帰国。この頃教弘の子・大内政弘は応仁の乱における西軍の主力として活躍し、文明9年(1477)東軍と和睦して応仁の乱は終結した。

 

 雪舟は62歳となった文明13年(1481)には美濃に赴いている。当時美濃には西軍の盟主で、応仁の乱後に亡命した足利義視・義材父子がいた。

 

 長享3年(1489)9代将軍・足利義尚が、翌延徳2年(1490)8代将軍・足利義政も死去すると、義材(のち義尹・義稙)が10代将軍に就任する。

 

 しかし明応2年(1493)義材は細川政元や日野富子らにより将軍職を廃され、越中・越前などを経て明応8年(1499)政弘の子・大内義興を頼り周防に逃れた。

 

 文亀元年(1501)80歳を超えて雪舟は丹後に赴き、国分寺や成相寺も克明に描かれた現在の国宝『天橋立図』(京都国立博物館)を書き残している。

 

 丹後国守護はこれも応仁の乱で西軍に与していた一色氏であり、雪舟はただ絵を描きに行っただけではなく、大内氏の外交などを担っていたとも考えられている。

 

 永正3年(1506)政敵の政元が丹後を攻めたが、翌永正4年(1507)味方に暗殺された。これに乗じて永正5年(1508)義興に擁された義尹が上洛し、将軍職に復帰した。

 

 雪舟は永正3年に石見で死去したとされるが、その最期については諸説ある。現在『天橋立図』をはじめ6点もの作品が国宝に指定されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 丹後国分寺跡

 

 天平13年(741)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔は、国分寺を造営する場所について、「国分寺は国の華であり、必ず好い場所を選ぶこと。また、人家に近くて臭いの漂う所や、人家から遠すぎて人々が集りにくい所は良くない。」と述べています。この詔を受けて、丹後国分寺の建立地として選ばれたのが、天橋立に正対して、端から端まで望むことができ、府中地区の西端にあたる当地でした。

 この時に建立された丹後国分寺については、史跡地内で採集された奈良時代末頃の瓦片によって存在をうかがい知ることができる程度で、詳しいことはわかっていません。

 鎌倉時代末に荒廃していた丹後国分寺は、律宗の僧・宣基上人によって再建され、建武元年(1334)には金堂供養が行われました。供養の様子や金堂の平面図は「丹後国分寺再興縁起」(重要文化財)に記されています。

 雪舟が16世紀初め頃に描いた「天橋立図」(国宝)には、現在史跡地内に基壇や礎石が残る、金堂・五重塔・中門のほか、数棟の建物が描かれています。

 

京都府立丹後郷土資料館 ふるさとミュージアム丹後