丹後 峰山陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①峰山城趾碑②京極氏陣屋跡碑③土塁④陣屋跡

 

訪問日:2021年5月

 

所在地:京都府京丹後市

 

 絹屋佐平治は天和3年(1683)丹後峰山に生まれた。当時の丹後は延宝の大飢饉(1680-81)により人口の2割にあたる14,816名が餓死したと伝わっている。

 

 また、享保2年(1717)にも凶作飢饉が起こり、丹後の人々は困窮に喘いだ。佐平治は当時流行していた西陣秘伝の縮緬(ちりめん)撚り糸技術に目をつけた。

 

 丹後は元々絹織物の盛んな地域であったが、西陣の繁栄に伴い衰退していた。佐平治は享保4年(1719)西陣の織屋に奉公人として入り込み技術を探るが失敗に終わる。

 

 しかし再び西陣に出向いて糸綺屋に入り込み、享保5年(1720)故郷に西陣の独占技術であった撚り糸技術を持ち帰ることに成功した。

 

 また、加悦谷(宮津藩領)の木綿屋六右衛門も手米屋小右衛門と山本屋佐兵衛を西陣に送り込み享保7年(1722)技術を持ち帰っていた。

 

 佐平治らが持ち帰った技術は丹後一円に広まり、享保11年(1726)峰山は取引問屋・丹後屋源右衛門により京都に丹後ちりめんの販路を持つに至る。

 

 さらに享保15年(1730)「西陣焼け」大火により西陣の織機の4割以上にのぼる3120台が焼失ということもあり、丹後ちりめんは西陣を脅かすほどの大発展を遂げる。

 

 同年、峰山藩主・京極高長は佐平治に名字帯刀を許し、森田治郎兵衛と名乗らせて「ちりめんや」の屋号と自筆による「お召し ちりめんや」の紺染のれんを与えた。

 

 峰山藩は領民にちりめんの生産を奨励し、品質管理を徹底したため品質が向上・維持された。一方、宮津藩は農耕を怠っているとして領民に圧力をかけたという。

 

 延享元年(1744)幕府は西陣に泣きつかれ、丹後の出荷量を36,000反に制限した。森田治郎兵衛は同年、62歳で病没している。

 

 

以下、現地案内板より

 

京極家陣屋跡

 

 峯山藩は、戦国大名の京極高知(きょうごくたかとも)が関ヶ原の戦いの戦功により賜った丹後一国の領土を、後に遺領として子供三人に三分割し、その一人「京極高通(たかみち)」を初代藩主として12代藩主「京極高陳(たかのぶ)」の明治まで続く由緒ある藩です。

 この京極家陣屋跡は、初代藩主高通が城砦の必要が無くなった吉原山城(権現山山頂付近、一色・細川・京極三氏の城地として約500年間続いた山城)を廃し、居館を構えた場所(御陣屋)で以来藩政の拠点として明治まで続きました。

 

 

吉原山城の由来

 

 吉原山城は、一色・細川・京極三氏の城地として約500年の間、丹後の政治・軍略の中心であった。しかし、城といっても天嶮を利用した山城であり、切崖や掘割の上に平坦地を作り、柵をめぐらし木戸を構えて、敵襲の場合は逆茂木を埋め、陣屋を建てて寄手を防ぐというきわめて原始的なものであった。

 嘉慶2年(1388年)守護一色詮範は、吉原山祇山に始めて山城を築いて立てこもったが、その後山頂の人呼びの嶺を本丸と定め、西丸や、三段の砦を設ける等、本格的な築城にかかり、守りを固めた。

 織田信長の天下統一とともに、城主は細川氏にかわり細川興元は天正10年(1582年)本丸に御陣屋を建て、二の丸・三の丸をおき寺谷の東(今の上町)市街地を開いて、嶺山と名付けた。

 徳川時代になってから、藩主は京極氏にかわり、初代高通は、元和10年(1624年)お国入りをして城下町をつくり峯山町と改称した。この頃になると城砦の必要がなくなったので、山城を廃して藩主の居館(御陣屋)御蔵・表門・侍屋敷・御粗長屋等をつくった。

 吉原山は、京極氏が山頂に蔵王権現を祀っていたことから、権現山と呼ばれるようになり、現在にいたっている。

 

昭和57年10月 京丹後市教育委員会