丹後 成相山 成相寺(成相寺城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本堂②権現堂③鐘堂④五重塔⑤山門⑥パノラマ展望所より

 

訪問日:2021年5月

 

所在地:京都府宮津市

 

 小式部内侍は長保元年(999)頃に和泉守・橘道貞と和泉式部の間に生まれた。実名は不明。母とともに一条天皇の中宮・彰子に出仕した。

 

 父と母の婚姻はその後破綻し、母は長和4年(1015)頃に再婚した丹後守・藤原保昌とともに任国の丹後に下った。

 

 小式部内侍は長和5年(1016)後の関白、太政大臣・藤原教通(藤原道長の5男)との間に静円を、藤原範永(最高位・正四位下摂津守)との間に娘を出産している。

 

 また、教通の異母兄・藤原頼宗(最高位・従一位右大臣)や藤原定頼(最高位・正二位権中納言)との交際も伝わっている。

 

 ある日定頼が母が代作をしているという噂があった小式部内侍に対し、「丹後に代作を頼む使者を出したのか?」などと揶揄した。これに対し、小式部内侍は即興で、

 

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

(小倉百人一首)

 

と見事に詠み、定頼は返歌もできず恥をかき、小式部内侍の名声が高まったという。

 

 しかし、小式部内侍は万寿2年(1025)藤原公成(最高位・従二位権中納言)の子・藤原頼仁(頼忍阿闍梨)出産の際、20代の若さで死去した。

 

 この時、母・和泉式部が詠んだ哀傷歌

 

とどめおきて 誰をあはれと 思ふらん 子はまさるらむ 子はまさりけり

(後拾遺和歌集)

 

は傑作として知られる。

 

 

以下、現地案内板より

 

世屋山 成相寺

 

ここ世屋山成相寺は、西国二十八番の霊場として、古くから有名であり、年中参詣人の絶えぬ山である。寺伝には文武天皇慶雲元年(704)とあり、開基真応上人が何人であるか詳かでない。しかし、その一千年に余る歴史は、対岸文殊堂および特別名勝「天橋立」と併せて、実に三位一体的存在であるといってよい。

当山縁起に、無遠禅師鹿肉のことがあり、その他怪異の説話もあり、いずれも霊場にふさわしいが、殊にかの大江山鬼退治の源頼光が納めた願文を有し、それに「此の度当国大江山夷賊追討の為勅令を蒙る」云々とあって、赤青の鬼賊を想像させる何ものもない。下って足利期には一色対武田の戦いがくりかえされ、それはこの霊山の大きい悲しみであり、また償いえぬ損失であった。

なお当寺に数々の寺宝があって、なかでも「丹後国諸荘郷保総田数帳目録」および兆殿司筆と伝える「阿弥陀像」一幅は、ともに国の重要文化財に指定されている。

なにはともあれ信仰と景観を併せえた当山は、まことに日本一の霊場である。

 波の音 松のひびきも 成相の 風ふきわたす 天の橋立(御詠歌)

 

宮津市文化財保護委員会