丹後 阿弥陀峰城/今熊野城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①国分寺跡より②弁天山展望台より

 

訪問日:2021年5月

 

所在地:京都府宮津市

 

 一色義有は長享元年(1487)一色義遠の子として生まれた。応仁の乱で西軍に与した父は文明10年(1478)尾張国知多分郡守護を解任され、丹後国に戻っていた。

 

 丹後では国衆の叛乱が相次ぎ、明応7年(1498)本家で丹後守護・伊勢半国守護の一色義秀(従兄弟)が国衆に攻められ自害すると父の推挙で本家の家督を継ぐ。

 

 守護代の延永春信・石川直経といった国衆らの叛乱が止まない中、永正2年(1505)義有は丹後国守護に補任される。

 

 しかし翌永正3年(1506)幕府管領・細川政元は義有を解任し、丹後に攻め寄せた。仇敵の若狭守護・武田元信も加わり、連合軍は成相寺・府中城に布陣した。

 

 この状況に至り、義有は今熊野城、春信は阿弥陀峰城、直経は加悦城にそれぞれ籠って防戦し、年を越えても丹後勢は持ち堪えていた。

 

 そして永正4年(1507)6月、直経と和睦して京都に戻った細川澄之や香西元長らが政元を暗殺する(永正の錯乱)。

 

 細川勢は義有と和睦を結び撤退を図るが、直経がこれを追撃して赤沢朝経らを討ち取る。永正5年(1508)将軍に復帰した足利義尹により義有は丹後守護に再任される。

 

 しかし永正6年(1509)には義有との続柄が不明(子・弟・従兄弟説など)な一色義清が丹後守護に補任されるなどその後も混乱は続いたようだ。

 

 そのような中、義有は永正9年(1512)26歳で病死した。義清も同族の一色九郎(義幸か)と対立し、義清には直経が、九郎には春信が結んで争った。