訪問日:2021年2月
所在地:奈良県御所市
永井氏は桓武平氏長田氏の系統で、平治2年(1160)源義朝を謀殺した長田忠致の兄・長田親致を祖とする。
徳川家康はこれを嫌い、家臣の長田直勝を大江姓永井氏に改姓させた。永井直勝は最終的に下総古河藩7万2千石を領した。
直勝の曾孫で丹後宮津藩7万3千石を領していた永井氏宗家4代目の尚長は、延宝8年(1680)志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に刺殺され、改易となる。
しかし同年、弟の永井直圓が1万石の大和新庄藩主として家名存続が許された。直圓から8代目の永井直壮は文久3年(1863)陣屋を櫛羅に移転する。
移転の理由は同年の文久の改革により参勤交代が緩和され、江戸滞在は3年に1度、100日とし、妻子も帰国することが許されたためと思われる。
直壮の養嗣子・直哉は、嘉永3年(1850)下総高岡藩主・井上正瀧の5男として生まれた。徳川家康の9男・徳川義直の男系子孫である。
慶応元年(1865)直壮が櫛羅に入ることなく20歳で死去するとその跡を継ぎ、同年大坂加番を命じられ、翌年には歴代藩主で初めて藩領に入る。
慶応4年(1868)1月19日に上洛して明治新政府に恭順、明治2年(1869)版籍奉還により櫛羅藩知事、明治4年(1871)廃藩置県で免官となった。
明治17年(1884)子爵を叙爵し、明治45年(1912)63歳で死去。
なお、美濃加納藩3万2千石永井氏(子爵)、摂津高槻藩3万6千石永井氏(子爵)や幕末に活躍した永井尚志の旗本家は分家にあたる。