摂津 西宮郷(灘五郷) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①宮水発祥之地碑②喜一・宮水井戸③大関・宮水井戸場④「白鷹」碑⑤白鹿・釜場遺跡⑥旧辰馬喜十郎住宅

 

訪問日:2021年1月

 

所在地:兵庫県西宮市

 

 灘という地名は元々は武庫川(西宮市)河口から旧生田川(現在の神戸フラワーロード)河口までの東西に長い平野部の広域名であった。

 

 現在、酒造地として知られる「灘五郷」とは西から西郷・御影郷・魚崎郷・西宮郷・今津郷を指し、日本の清酒生産量の3割を占めるという。

 

 西宮における酒造業の記録としては、室町時代中期の関白・一条兼良(1402-81)が随筆『尺素往来』で「兵庫 西宮の旨酒」について言及している。

 

 しかしこの頃の摂津の酒造地は猪名川上流の伊丹郷・池田郷・鴻池郷や武庫川上流の小浜郷・大鹿郷の方が盛んだったようだ。

 

 慶長5年(1600)には鴻池直文(山中幸盛の子・山中幸元と同一人物か)が清酒の大量生産法を開発したことをキッカケに清酒が一般大衆に広まる。

 

 寛永年間(1624-45)伊丹の雑喉屋文右衛門が伊丹から西宮に移住して酒造業を始め、西宮が酒造地として台頭、江戸への「下り酒」も盛んとなる。

 

 「下り酒」の酒蔵が集中したのが「摂泉十二郷」のうち、「旧九郷」と呼ばれる大坂・伝法・北荘・池田・伊丹・尼崎・西宮・兵庫・堺であった。

 

 これに加えて、下灘(近代には衰退)・上灘(西郷・御影・魚崎)・今津の「新三郷(灘目三郷)が台頭し、湊を持つ西宮とともに水運の利を得てそのシェアを伸ばした。

 

 享保15年(1730)には輸送時間の短縮のため、木綿や醤油など多様な荷を扱う菱垣廻船問屋から脱退し、酒だけを運ぶ樽廻船問屋を結成した(後に他の荷も扱う)。

 

 宝暦元年(1751)大御所・徳川吉宗死去、同年には田沼意次が将軍・徳川家重の御側御用取次となり、田沼時代(評定所出座は宝暦8年から)の幕が開く。

 

 宝暦初年は米の豊作が続いたこともあり、宝暦4年(1754)には無制限の酒造を許可する「勝手造り令」が出された。

 

 これらの酒郷の多くは尼崎藩領であったが、明和6年(1769)青山氏の転封とともに西宮・今津・上灘・下灘・兵庫などが幕府に収公された。

 

 西宮は大坂町奉行所が、今津・上灘・下灘は代官所支配となり、文政11年(1828)には上灘が西組(西郷)・中組(御影)・東組(魚崎) に分かれる。

 

 この時、下灘・上灘3組・今津を指して初めて「灘五郷」の呼称が生まれるが、この近世灘五郷には奉行所支配の西宮は含まれない。

 

 明治19年(1886)の摂津灘酒造組合設立時に酒造が衰退していた下灘が外れて西宮が加わり現在の「灘五郷」となる。

 

 なお、灘五郷の酒造に欠かせない「宮水」は天保8年(1837)櫻正宗(魚崎)の6代目山邑太左衛門が西宮で発見したとされている。

 

 

以下、現地案内板より

 

宮水・酒蔵地帯

 

「百の蔵から歌声もれる いつものどかな酒の町」戦前の西宮音頭は酒の町西宮をこんな風に歌いました。今次の大戦で酒蔵の大半が焼失、さらに技術革新が酒造りを大きく変え、鉄筋コンクリートの酒蔵の出現で酒の町の風情も変わりました。しかし、灘の名酒のいのちともいえる宮水は変わることなく宮水地帯に湧き、それぞれの井戸場から汲み出されて灘の酒蔵に送られます。この宮水は先年環境庁選定の日本名水百選に選ばれました。

 

 

産地を生んだ宮水

 

 おいしい酒には、良い水が不可欠だ。酒造り全体では白米量の約2〜2.5倍の水量を使用するので、これは当然のことと言える。西宮のうまい水=「宮水」は、名酒と産地を育んできた根幹である。

 江戸時代の酒は、「秋落ち」といって夏を越すと味が悪くなった。しかし、西宮の酒だけは秋を迎えてかえって味が冴え、「秋晴れ」と讃えられていた。西宮の酒だけになぜ「秋晴れ」が起きるのか?という謎を追求したのは、魚崎と西宮に蔵をもっていた酒造家・山邑太左衛門。天保11年(1840)、山邑は仕込み水の違いが原因であることを発見した。これ以来、灘の酒造家はこぞって宮水をもちいるようになった。当時は、水屋という専門業者がこの井戸場に展示している『はね釣瓶』という道具を用いて水をくみ、宮水を各地の酒蔵に供給していた。

 

 

「白鷹」碑

 

 伊勢の神宮では、神神に昔から朝夕のお食事を差し上げられます。

 これを「日別朝夕大御饌祭」と申し、海の幸、山の幸とともに御酒が供えられます。

 白鷹は、その御料酒として全国数多くの銘柄から唯一つ選ばれる栄に浴し今日まで、献上をつづけてまいりました。

 この永年のご奉仕を嘉して、とくに神宮司庁より此の碑を下賜されたのであります。

 

白鷹株式会社

 

 

宮水と酒文化の道

酒香る 西宮郷・今津郷

 

 この南に西宮湊があります。江戸時代にはここから江戸への下り酒がさかんに積み出され、さぞや活気があったであろうと想像できます。

 このあたりには、明治時代に建造されたレンガ造りの酒蔵がありましたが、平成7年の阪神淡路大震災で崩壊してしまいました。右手に見える洋館は辰馬喜十郎の住居で、日本人の手で建て日本人が住んだ洋館では最古の建物です。この建物からも、新しい文化を積極的に取り入れようとする酒造家の進取の気性が感じ取れます。こうした気概が目を外に向かせることになったのかもしれません。

 

 これを示すように、辰馬本家では1889年のパリ万国博覧会をはじめアメリカ・スペイン・ベルギーなどで開催された各国の万国博覧会に “SAKE” を出展、いずれもメダルと賞状を受賞し世界への第一歩を踏み出しました。