播磨 泉生山 酒見寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本堂と鐘楼②多宝塔③常行堂④観音堂と地蔵堂⑤持仏堂・護摩堂⑥楼門

 

訪問日:2021年1月

 

所在地:兵庫県加西市

 

 平治元年(1159)の平治の乱で酒見明神社(現住吉神社)/酒見寺は全山焼失したという。平治の乱は京都だけの戦いかと思っていたが、播磨にも飛び火していたのだろうか。

 

 どの勢力が当地での戦闘に関わったのか調べてはみたが分からなかった。ただ保元元年(1156)保元の乱の後に平清盛が播磨守となっていた。

 

 平治元年12月9日(1160年1月19日)藤原信頼に与する軍勢が清盛の熊野参詣の留守を衝き三条殿を襲撃して後白河上皇を確保、政権を奪取すると翌日に源義朝を播磨守に任じた。

 

 しかし二条天皇が清盛の六波羅邸に行幸し、上皇も仁和寺に脱出すると状況は一変し、12月26日の六波羅合戦で義朝らは追討宣旨を奉じた清盛らにあえなく敗退する。

 

 義朝は27日付で播磨守を解官され、翌平治2年1月3日(1160年2月11日)尾張で家人の長田忠致・景致父子に裏切られて殺害される。

 

 12月9日〜26日の間に、新たに播磨守となった義朝に与する勢力が清盛と所縁のある酒見明神社/酒見寺を襲撃したといったところだろうか。

 

 酒見寺は清盛が後ろ盾となって親政を支えた二条天皇のご朱印を賜い、その勅によってすぐに(天皇は永万元年・1165に23歳で崩御)再建されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定重要文化財 酒見寺多宝塔

 

指定年月日 昭和50年6月23日  修理工事竣工 昭和53年8月30日

所有者・管理者 酒見寺

 

 酒見寺は泉生山と号する真言宗寺院で、行基菩薩の開山と伝えられています。天正年間(約400年前)、兵火にあって焼失し、そのあと再興されたのが現在の伽藍です。この多宝塔の建立年代は、相輪に寛文2年(1662)の刻銘があり、さらにその上層の柱にも寛文2年の墨書がありますので、この時代の再建と考えられます。

 これらの多宝塔は、密教系の塔形として平安時代から建立され、真言宗では南天笠の鉄塔の形を摸し、大日如来または密教の五仏を本尊とするのが一般的であるといわれています。県下においては、この種の多宝塔は、7ヶ所の寺院に現存し、加西市においては、国正町の奥山寺の多宝塔がその類したものとして現存しています。

 この塔の内部には、四天柱や来迎壁には、両界諸仏、外陣脇間の壁板には真言8碑祖を、その他全面に装飾文様をそれぞれ極彩色で描いています。また来迎壁の背面には、享保13年(1728年)の墨書がありますので、この彩色は、このころまでかけて施されたものといえます。なお外部も台輪、組物、丸桁などにも極彩色を施していますが、総じてこの多宝塔は比較的に大型で、上重の軸部の径が下重の総柱間に対して細いこと、上部の亀腹が小造りであることなど前代風をよくのこしているうえに、各部の均衡も安定感のある外観となっています。とくに屋根は、上重が檜皮葺、下重が本瓦葺として葺き方を異にしているのは、類例がなく、大変めずらしいものといわれています。

 これら県下における江戸時代前期の多宝塔建築の流れを知るうえにおいて、重要な遺構であるといえます。

 

平成28年3月 加西市教育委員会