出羽 湊城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①土崎神明社拝殿②湊安東氏顕彰碑③土崎街区公園④忠魂碑⑤土崎神明社⑥案内板

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:秋田県秋田市

 

 安東実季は天正4年(1576)安東愛季の次男として生まれた。母は側室の畠山清信の娘。

 

 天正15年(1587)父が角館城主・戸沢盛安との戦いの最中に陣没し、兄・安東業季は夭折していたため、12歳で家督を継いだ。

 

 同年、大館城代の五十目秀兼が南部氏に内通し、大館城を失う。

 

 天正17年(1589)には従兄の豊島(安東)通季が戸沢氏や南部氏、小野寺とも連携して湊安東氏の復興を図って挙兵する(第三次湊騒動)。

 

 実季は湊城を奪われ、脇本城も放棄して檜山城に拠り5ヶ月にわたり籠城、南部氏からの独立を図る大浦(津軽)為信や由利十二頭との連携で通季を破る。

 

 通季は南部氏のもとに逃れ、その家臣となった。また天正18年(1590)には為信の助力で大館城を南部氏から奪還し、為信の斡旋で浅利頼平(勝頼の子)が大館城に復帰した。

 

 同年の小田原征伐に参陣、天正19年(1591)湊騒動が惣無事令違反とされ、2万5千石を太閤蔵入地として没収され(代官は実季)、5万2千石を安堵された。

 

 実季は湊城を改修して本拠を移した。そして秋田城介を名乗り秋田氏に改姓する。同年の九戸政実の乱、また文禄元年(1592)からの朝鮮出兵にも参陣する。

 

 安東氏からの独立を図る浅利頼平との紛争解決が膠着する中、慶長3年(1598)上洛した頼平が急死し、秋田氏による毒殺が疑われた。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで東軍に与し、小野寺義道を大森城に攻めた。しかし最上義光は徳川家康に実季は東軍とは言えないと讒言する。

 

 嫌疑は晴れたが、慶長7年(1602)佐竹氏の出羽転封に伴い、常陸国宍戸5万石に転封された。これは事実上の減封であった。

 

 慶長16年(1611)従五位下・秋田城介に正式に叙任される。慶長20年(1615)大坂夏の陣では豊臣方先鋒と戦い敗北を喫している。

 

 寛永7年(1630)突如伊勢国朝熊への蟄居を命じられ、嫡男・俊季が家督を継ぎ、正保2年(1645)陸奥三春5万5千石に転封となった。

 

 30年にわたる朝熊永松寺での蟄居生活の末、万治2年(1660)実季は同地で死去した。85歳、蟄居の詳細は不明である。

 

 

湊城跡

秋田市土崎港中央3丁目9番

 

 湊城は安藤氏の居城であった。

 築造年代や規模は明らかでないが、天正元年(1573)当時すでに湊城があり、また現地形と元文年間(1736〜1740)の古絵図によると、堀をめぐらした平城であった。慶長四年(1599)から翌年にかけて本格的築造がなされた。

 慶長7年(1602)秋田入りした佐竹氏も一時ここに拠ったが、同9年(1604)久保田城に移ったあと廃城となった。

 

市制施行90周年記念 昭和54年 秋田市

 

 

湊安東氏顕彰碑

 

 湊安東氏は室町初期(1394年)安東鹿季を初代とし、実季まで二百数年間、治所湊城にあって善政をしいた。

 戦国の世にあっては四周の外敵を駆逐して治安を確立、殖産興業をはかって民治の実をあげ、さらに海運の発達と経済の成長をうながした。また信仰を篤くし民情の教化を深め、文化の高揚に意をはらうとともに、湊八丁の基礎を築き、城下建設に当るなど、歴代の遺業は今日における土崎湊町発展の基をなしている。

 秋田市制施行百周年にあたり、湊城本丸跡に碑を建立して、湊安東氏の偉功を顕彰し、これを千載に伝えようとするものである。