出羽 久保田城② | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①御出書院跡②新兵具隅櫓③本丸表門④御物頭御番所⑤長坂門跡⑥水堀

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:秋田県秋田市

 

 佐竹義堯は文政8年(1825)相馬中村藩11代藩主・相馬益胤の3男として生まれた。母は側室の池田氏、異母兄に相馬充胤・佐竹義典、同母弟に佐竹義諶らがいる。

 

 初名は相馬宗胤、嘉永2年(1849)久保田新田藩主・佐竹義純の長女・多喜を娶り養嗣子となり、同年家督を相続する。

 

 安政4年(1857)佐竹東家の佐竹義矩(中村藩10代藩主・相馬樹胤の子、義堯の従兄)が宗家の久保田藩主・佐竹義睦に蟄居を命じられ、長男・佐竹義寿に家督を譲る。

 

 その直後に義睦が発病して19歳で死去、義堯が末期養子として宗家の家督を継ぎ12代藩主となり、久保田新田藩主は弟の義諶が相続した。

 

 すると義矩が実家の中村藩12代藩主・充胤に義寿の宗家相続を働きかけたことから、安政5年(1858)義矩を家老の横手城代・戸村義効預けとした(同年死去)。

 

 安政6年(1859)秋田に国入り直後、ロシア汽船が男鹿半島沖に現れて薪を求めると、攘夷論が叫ばれる中、義堯はこれを許可している。

 

 文久3年(1863)将軍・徳川家茂に従って上洛し、孝明天皇に拝謁する。帰国後同年内に上洛命令を受けるが病気を理由に戸村を派遣、喘息の持病があった。

 

 慶応4年(1868)戊辰戦争では当初奥羽越列藩同盟に参加するが、藩内の尊王派が勢いづき、結果として新政府軍に与することとなる。

 

 戦争には勝利するものの藩領の3分の2が戦火に晒されるという結果となる。明治2年(1869)新政府から20万両を賜るが、財政は火の車であった。

 

 そのため新政府が禁じた貨幣鋳造を続けたため、明治4年(1871)元勘定奉行ら11人が処罰された。同年廃藩置県により藩知事を免職となる。

 

 その後も事件が重なり旧久保田藩は新政府から厳しい目で見られ、義堯は戊辰戦争の功はほとんど水泡に帰すと嘆くしかなかった。

 

 ところで喘息の持病を持っていた義堯のために藩医の藤井正亭治が藩に伝わる薬を改良した。これが廃藩とともに藤井家に下賜されて一般に販売された。龍角散である。

 

 明治5年(1872)隠居して甥(義諶の長男)の佐竹義脩に一旦家督を譲るが、明治14年(1881)義脩を実家に帰し、再び家督を相続した。

 

 明治17年(1884)侯爵となった直後に60歳で死去した。侯爵家は次男・佐竹義生が相続している。

 

 

以下、現地案内板より

 

久保田城表門

 

 表門は久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていた。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていた。

 久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。

 この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門であり、佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。

 

平成13年3月 秋田市