出羽 脇本城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①内館全景②内館南曲輪群③内館北曲輪群④大土塁⑤大土塁より西方⑥男鹿半島

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:秋田県男鹿市

 

 安東愛季は天文8年(1539)檜山安東氏7代・安東舜季の子として生まれた。母は湊安東氏7・9代の安東堯季の娘。

 

 天文20年(1551)堯季が死去すると、外孫で愛季の同母弟・安東茂季が湊安東氏10代目を継いだ。

 

 天文22年(1553)舜季の死去により檜山安東氏の8代目の家督を継ぎ、兄弟で両安東氏の当主を占めることとなった。

 

 永禄5年(1562)比内郡独鈷城主・浅利則祐とその弟・浅利勝頼の不和に乗じて勝頼に則祐を討たせて安東氏に帰属させる。

 

 永禄10年(1567)南部領の鹿角郡に侵攻して長牛城を奪うが、翌永禄11年(1568)南部晴政・信直と九戸政実に挟撃され奪還される。

 

 元亀元年(1570)茂季が交易統制を強化すると、家臣の豊島玄蕃は横手城主・小野寺景道や角館城主・戸沢盛安らと結んで反乱を起こし第二次湊騒動となる。

 

 愛季が援軍を派遣したが鎮圧までに2年を要したという。愛季はこの後、茂季を豊島城に移して湊城を支配下に置き、両安東氏を統一したともいわれる。

 

 天正5年(1577)檜山城と湊城の中間に位置する脇本城を改修して檜山城を嫡男・安東業季に譲り居城を移した。同年、従五位下に叙任される。

 

 天正7年(1579)茂季が40歳で死去すると、16歳の嫡子・安東通季が家督を継ぎ豊島城主となったというが、一方で豊島玄蕃が豊島城に復帰したともされる。

 

 天正8年(1580)従五位上・侍従に任ぜられる。織田信長に誼を通じて毎年のように鷹などを贈っていた。

 

 天正10年(1582)自立を図った浅利勝頼を蠣崎(松前)慶広に謀殺させる。天正11年(1583)庄内の大宝寺義氏を破り、由利郡の大半を勢力下に置く。

 

 同年に業季が病没、天正15年(1587)戸沢盛安との戦いの最中に病に斃れ、仙北淀川にて陣没、49歳だった。家督は12歳の次男・実季が継ぐ。

 

 愛季は天正元年(1573)から天正10年(1582)まで毎年織田信長に鷹などの貢物を贈り、その後は羽柴秀吉とも誼を通じていた。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 脇本城跡

指定/平成16年9月30日

指定面積/1,287,382.77㎡

 

 史跡脇本城跡は、日本海を見下ろすようにそびえる標高100m程の広大な山城です。室町〜戦国時代に秋田県中央〜北部を支配した安東氏の城である、檜山城(能代市)、湊城(秋田市土崎)の間に位置する脇本城は、天正5年(1577)に安東愛季が大規模に改修したと考えられ、曲輪や土塁、井戸跡等、戦国時代に整備された山城の遺構が観察できます。発掘調査では、当時の掘立柱建物跡、塀・柵跡等の遺構や、陶磁器、木製品、金属製品等の武具や生活用品等、貴重な遺物も多数出土しています。

 南側の内館地区からは、西の真山・本山、東の八郎潟(現大潟村)や森吉山、南には日本海が開け、山形県との県境、鳥海山まで見渡すことができ、海沿いを拠点として勢力をのばした安東氏がこの地を選んだことを実感する眺めを楽しむことができます。

 

 

脇本城跡

 

天正5年(1577)下国安東愛季が大規模に修築し居城とした城として知られる。愛季はもと檜山城主であり、元亀元年(1570)秋田湊城を統合して、小鹿島をも直轄地とし、「ひのもと(蝦夷)将軍」として蝦夷管轄をも担い、織田信長との交渉のさなか、脇本城を居城とした。盛時の縄張りは茶臼館や岩倉館まで含む、もともと14世紀頃から城館が営まれていたとみられ、愛季の後の城主は脇本五郎脩季の伝承を伴っている。天正17年湊合戦で戦場となり、豊臣大名秋田実季の代には本格的修築は許されなかった。近世には大平城跡・生鼻城跡の通称でも伝えられたが、文化7年(1810)大地震のさい生鼻岬に700m余が海中に没し、現在は本丸とみられる地域に郭・土塁・空堀・井戸跡等が残り、黄瀬戸・青磁・珠州陶等が出土する。