淡路 淳仁天皇 淡路陵 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①淡路陵

 

訪問日:2012年3月

 

所在地:兵庫県南あわじ市

 

 天平宝字8年(764)9月、正一位・太師の藤原仲麻呂(恵美押勝・59)の挙兵は孝謙上皇(47)により急遽従三位・参議に叙任された中衛大将・吉備真備(70)らの活躍により失敗し、今帝に擁立した中納言・氷上塩焼(天武天皇の孫・年齢不詳)とともに近江で殺害された。

 

 仲麻呂に近かった天皇(32)は上皇により御璽を奪われ、反乱には加わっていなかったものの10月には上皇の兵に中宮院を包囲されて廃位を宣告され、上皇ではなく「淡路公」という親王待遇で母・当麻山背(年齢不詳)とともに淡路に配流となった。

 

 重祚した称徳天皇は佐伯助(たすく・年齢不詳)を従五位下・淡路守に叙任し、淡路公を監視させた。京都には依然淡路公の復帰を図る勢力があり、密かに淡路まで訪ねてくる官人も後を絶たなかったため、天平神護元年(765)2月には助に対して警戒強化の勅令を下した。

 

 同年10月、淡路公はついに逃亡を図るが失敗して助に捕らえられ、その翌日に没した。一人娘の安倍内親王は父の廃位とともに伊勢斎宮を退き、その後礒部王(長屋王の孫)に嫁ぎ(異説あり)石見王を産んだ。石見王の子は臣籍降下して高階峯緒と名乗った。子孫に高階泰経や高階栄子、また高師直らの高氏も高階氏の後裔という。

 

 助は天平神護2年(766)従五位上・山背介次いで山背守に叙任され、神護景雲3年(769)には兵部大輔、宝亀2年(771)には肥後守に転じ、宝亀3年(772)正五位下、宝亀6年(775)従四位下に昇叙、宝亀9年(778)11月に死去した。

 

 道鏡を重用した称徳天皇は神護景雲4年(宝亀元年・770)に53歳で崩御、天武天皇の系統は途絶え、62歳の光仁天皇(天智天皇の孫)が即位する。宝亀3年に天皇は淡路に僧侶60人を派遣して斎を設け、宝亀9年3月にはその墓を「山陵」と改称し墓守を置いた。

 

 しかしその後も淡路公は「淡路廃帝」と呼ばれ、一部を除いて歴代天皇に数えられなかったが、明治3年(1870)明治天皇により弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇(承久廃帝・在位78日)とともに「淳仁天皇」という諡号が奉られた。