山城 後二條天皇 北白河陵 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①北白河陵

 

訪問日:2012年11月

 

所在地:京都市左京区

 

 第94代・後二条天皇は弘安8年(1285)大覚寺統の第91代・後宇多天皇の第1皇子として生まれた。諱は邦治、母は堀川基子(西華門院)。3歳年少の異母弟に第96代・後醍醐天皇(尊治)。

 

 正応2年(1289)持明院統の第92代・伏見天皇が実子の胤仁親王(第93代・後伏見天皇)を皇太子としたため、邦治親王の祖父・亀山法皇(第90代)は両統迭立に反すると幕府に訴える。

 

 そして永仁6年(1298)後伏見天皇の即位とともに邦治親王が皇太子となり、正安3年(1301)譲位を受けて即位し、父の後宇多上皇が院政を敷いた。

 

 しかし後二条天皇は徳治3年(1308)9歳の邦良親王らを遺して24歳で崩御、後伏見天皇の異母弟である持明院統の第95代・花園天皇が12歳で即位した。

 

 本来なら邦良親王が皇太子となるべきだが、後宇多法皇は幕府に要請し、すでに21歳の尊治親王(後醍醐天皇)を皇太子とした。

 

 文保2年(1318)譲位を受けて後醍醐天皇が即位、再び院政を敷いた後宇多法皇は迭立に反し邦良親王を皇太子とすることに成功する。

 

 元亨元年(1321)法皇は院政を停止し、後醍醐天皇の親政が始まる。法皇は大覚寺統2系統による新たな両統迭立を目指していたという指摘もある。

 

 しかし元亨4年(1324)法皇崩御の直後に後醍醐天皇によるとされる討幕計画(正中の変)が発覚、邦良親王側は幕府に天皇の退位を求め、持明院統にも次期皇太子を約束して協力を求めた。

 

 後醍醐天皇は無罪を主張して譲位を拒否、大覚寺統内での対立となるが、事態が膠着する中、正中3年(1326)邦良親王が27歳で薨御してしまう。

 

 邦良親王に代わる皇太子は持明院統の巻き返しにより後伏見天皇の第3皇子・量仁親王(北朝初代・光厳天皇)となり、持明院統の譲位圧力が増す。

 

 元弘元年(1331)後醍醐天皇は挙兵(元弘の変)するも失敗に終わり流罪となって光厳天皇が即位、邦良親王の第1皇子・康仁親王が皇太子となった。

 

 しかし元弘3年(1333)後醍醐天皇が討幕に成功して復帰、光厳天皇とともに康仁親王も皇太子を廃され、その後は木寺宮家を興すが、室町時代中期に断絶した。