摂津 白井河原古戦場 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①惟政陣の糠塚

 

訪問日:2011年10月

 

所在地:大阪府茨木市

 

 池田知正は弘治元年(1555)摂津池田氏の当主・池田長正の長男として生まれた。永禄6年(1563)長正が死去すると、9歳の知正ではなく、一族(兄とも)の池田勝正が家督を相続する。

 

 勝正は永禄11年(1568)上洛した織田信長に降伏するが、伊丹親興・和田惟政とともに「摂津三守護」として所領を安堵される。

 

 元亀元年(1570)三好三人衆の調略に乗った姉婿の荒木村重や中川清秀らが勝正を追放し、16歳となった知正が擁立される。

 

 元亀2年(1571)には村重・清秀が白井河原の戦いで和田惟政・茨木重朝と戦い、両名を討ち取る大勝となる。

 

 さらに重朝の茨木城を攻略し、惟政の子・和田惟長が守る高槻城を包囲した。信長の家臣・明智光秀の調停により村重らは撤兵した。

 

 しかし信長と足利義昭が対立すると知正は義昭に与して没落、一方信長に寝返った村重は摂津国主を任せられ、清秀らもこれに従った。

 

 信長に降伏した知正は村重の家臣となり、主従が完全に逆転した。この頃は「荒木久左衛門」と荒木氏を名乗っている(村重もかつて池田氏を名乗っていた)。

 

 天正6年(1578)村重が信長に謀反、翌天正7年(1579)に村重が有岡城を脱出して尼崎城に移るとこれに代わり久左衛門(知正)が有岡城を守る。

 

 村重が尼崎城・花隈城を開城すれば有岡城の城兵・家族の命は助けるとの信長の条件を受け入れて有岡城を開城し、村重説得のため尼崎城に向かう。

 

 しかし村重はこれを拒否、窮した久左衛門は有岡城に戻らず出奔、有岡城に残された妻や嫡男・自然(14歳)ら男女約670名が処刑される。

 

 池田姓に戻った知正は、天正10年(1582)信長の死後、羽柴秀吉に2700石を与えられ、その死後は徳川家康に仕えて慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後には5千石に加増された。

 

 慶長9年(1604)死去、弟である光重の子・三九郎が養嗣子として家督を継ぐが翌年に死去、実父・光重が家督を継いだ。

 

 慶長19年(1614)光重は家臣の不祥事により改易される。大坂の陣に東軍として参戦するも再興は叶わず寛永5年(1628)江戸で死去した。子孫はその後も江戸に続いた。

 

 

以下、現地案内板より

 

白井河原古戦場

 

 この茨木川をはさんで付近一帯を「白井河原」といい、茨木・伊丹両氏と、池田氏とが歴史上の合戦をしたところです。

 茨木方を支持する和田伊賀守惟政と池田方の荒木摂津守村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、元亀2年(1571)8月、ついにこの白井河原で激突しました。

 この時、和田勢500余騎、池田勢2500余騎が相対しましたが、和田軍はまだ戦列が整っていませんでした。そこで部下の一人、高利平大夫(郡兵大夫)が時間かせぎをしようとしましたが、その計略がみやぶられたため主君惟政に「多勢に無勢、、、」などと進言しました。しかし、惟政これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに200余騎の少数で突撃しましたが、この時、惟政は、池田方の武将・中川瀬兵衛に打ちとられました。主君を失った和田・茨木の郎党たちは、「主を討たせてどうして生き残れようか」と切って出て討ち死にしたので、「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる」ほど赤い血に染ったそうです。

 

茨木市教育委員会

 

 

交通の要衝 中河原

 

 中河原は、佐保川と勝尾寺川が合流する白井河原から西、勝尾寺川南沿いの微高地に集落が形成されています。

 集落を東西に「西国街道」が走り、奈良時代には平城京(奈良)と九州を結ぶ山陽道(太宰府道)と呼ばれ、平安時代には平安京(京都)から九州に通じる道となり、鎌倉時代以降も貴族や高僧が、戦乱期には軍勢が往来していました。また、江戸時代には山崎通と称され、伏見と西宮を結ぶ脇街道として参勤交代の際の諸大名や役人のほか、西国三十三か所参りの人たちが利用していました。

 一方、難波宮から長柄や吹田の渡しを経て、市内宇野辺を通り山陽道に通じる三嶋路と、丹波の亀山(現亀岡市)から南進して清坂峠を越え、忍頂寺、大岩から福井を結ぶ清坂越道の2本の南北道(明治25年新設の亀丘街道)の結節点となりました。

 茨木市域内では唯一最大の合戦となった元亀2年(1571年)の白井河原の戦いで武勲をたて、戦国大名として4万400石の所領をもつ茨木城主となった中川清秀が生まれた由緒地(城州生誕説あり)でもあります。

 元和3年(1617年)福井村から分かれた中河原村は、明治21年(1888年)再び福井村に合併後、昭和30年(1955年) 茨木市との合併で今日に至っています。

 もともと、当地は福井村と兄弟姉妹の関係で、人、物、文化の行き交う町として発展してきました。

 

茨木市教育委員会