摂津 宅原城/横山城/五良谷城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①宅原城②横山城③五良谷城

 

訪問日:2020年2月

 

所在地:神戸市北区(宅原城) 兵庫県三田市(横山城・五良谷城)

 

 永禄11年(1568)三田城主・有馬国秀は足利義昭を奉じて上洛した織田信長に与して池田勝正と戦い、池田氏降伏後、有馬郡を安堵された。

 

 天正2年(1574)荒木村重が信長によって摂津国主となり、国秀もこれに従って村重の妻の妹を娶るが、天正3年(1575)村重に有岡城に呼び出されて自害し、有馬氏嫡流は断絶した。

 

 ちなみに後に三田藩主(子孫は久留米21万石藩主)となる有馬則頼は国秀と曽祖父を同じくする有馬氏庶流の人物である。

 

 村重は国秀に代えて寵臣・安都部弥市郎を荒木重堅と改名させた上で三田城主とし、重堅は村重の奉行として活躍したという。

 

 天正6年(1578)村重が信長に叛くと、重堅はこれに同調せず、羽柴秀吉の家臣となった、あるいは天正7年(1579)村重が有岡城から尼崎城に移った後、三田城を開いて降伏したという2説がある。

 

 明智光秀らは三田城包囲のため五良谷城などの付城を構築し、重堅に備えていたと思われ、重堅もある程度三田城で抵抗したと考えたいが、大きな戦いにはならなかったようだ。

 

 重堅は天正8年(1580)には秀吉の家臣となって中国攻めに従い、木下姓を与えられて木下重堅と改名し、鳥取城攻めなどで活躍し、天正10年(1582)には因幡若桜2万石を与えられた。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に与して伏見城の戦いや大津城の戦いに参戦した。戦後、天王寺に潜伏して徳川家康の赦しを請うたが、切腹命令を受けた。