摂津 松原城(蒲公英城)③ | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①曲輪2②曲輪1③曲輪1④愛宕神社⑤旧道場川原村⑥北神第3地点古墳

 

訪問日:2020年2月

 

所在地:神戸市北区

 

 松原氏初代・松原貞基は「松原氏系図」によると嘉吉の乱を起こした赤松満祐の弟・祐之と、赤松貞村の娘との間に生まれたとされるが、祐之の存在について証明するものはないらしい。

 

 外祖父・赤松貞村は庶流の春日部家の人物で、妹は足利義教の側室であった。嘉吉の乱は義教が貞村を重用し、満祐が播磨守護職を奪われることを恐れたことが一因とされる。

 

 また、赤松氏庶流で有馬郡を領した有馬氏の家臣にも松原氏を名乗る人がいたようで、あるいはこちらの流れの人物の可能性の方が高いかも知れない。

 

 貞基は赤松氏を再興した赤松政則に従い、嘉吉の乱の後、播磨・備前を領していた山名氏との戦いで功を挙げ、道場川原草下部城(松原城)を与えられ、有野荘、生瀬荘などを領したという。

 

 以後、義貞ー家久ー家長ー義富と続くが、永正8年(1511)には義貞が船岡山の戦いで、享禄3年(1530)には家久が浦上村宗との戦いで討死している。

 

 家長は天文8年(1539)播磨に侵攻した尼子晴久との戦いや、天文18年(1549)の摂津三宅城の戦いで戦功を挙げたという。

 

 そして最後の当主・義富の代の天正6年(1578)別所長治に与し、羽柴秀吉の侵攻を招く。秀吉は松原城を修築して三木城や荒木村重方の三田城との戦いに備えた。

 

 

以下、現地案内板より

 

愛宕神社

 

 今から300年前の『摂陽群談』という書物に「道場川原村は宿場町で旅人宿が多く、火災が発生しやすいので、火伏せの神の火産霊尊を祀る愛宕神社がある」と記されている。

 更に、それより後の『攝津名所図会』には「京都の愛宕権現より勧請し、毎年7月24日夜祭祀を行う。これを愛宕火という。付近には常に涸れない清泉がある。これを愛宕井と称する」と書かれている。

 また、元文元年の『攝津志』によれば、この地の麗水で造る酒は「香味軽くして美なり、人好んで之を求む」とあり、その水で煉る平飴はすこぶる美味で、有馬温泉に来た関白秀吉も感心して、税を免除して奨励した、と伝えている。

 

 

旧 道場川原村

 

 丹波・播州・大坂街道の要衝で、中世は城下町として、江戸時代からは日下部村と共に宿場町として栄えた。

 

神戸市北区役所・道場町連合自治会

 

 

北神第3地点古墳

 

 北神第3地点古墳は6世紀中頃に造られた全長36mの前方後円墳です。前方部を北西に向け、後円部の直径は27m、高さ約5mを測ります。埋葬施設は後円部の中央に造られた全長8.6mの横穴式石室です。南に開口し、棺を納める部屋である玄室(げんしつ)の長さは5.0m、幅2.0mで、玄室へ入るための羨道(せんどう)の長さは3.6m、幅1.1mを測ります。石室の奥壁最下段の石には、直径12.5mの「〇」の形が刻んでありました。この「〇」形の線刻は兵庫県下で初めて見つかったものです。石室は調査後埋め戻し、墳丘内に保存されています。

 石室内は盗掘を受けており、副葬品の出土は少ないですが、須恵器の杯や壺などの土器類のほかに、馬具や鉄鏃・ガラス玉などが出土しています。

 この古墳は、北神地域唯一の古墳時代後期の前方後円墳で、塩田の盆地を見渡せる丘陵上に築かれていることから、この地域を治めていた豪族の墓と考えられます。

 

令和元年8月 神戸市教育委員会