紀伊 補陀落山 施無畏寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本堂②本堂・開山堂③境内④庫裏と湯浅湾⑤山門

 

訪問日:2020年1月

 

所在地:和歌山県有田郡湯浅町

 

 湯浅(保田)宗光は湯浅宗重の7男として生まれた。4兄に文覚の弟子で神護寺復興に力を尽くした上覚が、華厳宗中興の祖・明恵上人は甥(姉妹の子)である。

 

 建久8年(1197)文覚より紀伊阿弖河上荘(有田川町・明恵生誕地)の下司職を譲り受け、承元4年(1210)には鎌倉幕府より阿弖河荘の地頭職を安堵される。

 

 激しい性格だったのか、正治元年(1199)には領家・四条隆房から狼藉の停止を命じられ、承久元年(1219)には熊野神人の訴えにより対馬に流罪となった(所領は次男・宗業に安堵される)。

 

 承久3年(1221)承久の乱の終結後に戻されて、阿弖河荘に加え、保田荘・田殿荘・石垣河北荘の地頭職を安堵され、保田氏を称した。しかしその後も荘園領主や高野山との相論が絶えなかった。

 

 寛喜3年(1231)宗家の湯浅景基(宗重の嫡孫)が明恵上人を招いて施無畏寺の開基とした。この時の景基の寄進状の筆頭に宗光の名があるが、勢力は宗家を凌いだようだ。

 

 (保田)宗業は保田荘の地頭職を継ぎ、在京して六波羅探題に仕えた。3男・(阿弖河)宗氏は阿弖河荘の地頭職を継ぐが、その子・宗親は『紀伊国阿弖河荘百姓訴状』にて非法を訴えられている。

 

 

以下、現地案内板より

 

和歌山県指定文化財

施無畏寺本堂、開山堂、鎮守社、鐘楼、四棟

指定 平成9年4月23日

 

本堂 桁行3間 梁間3間 入母屋造 向拝1間 本瓦葺  附(つけたり) 棟札2枚

開山堂 桁行3間 梁間3間 宝形造 本革葺  附 棟札2枚

鐘楼 桁行1間 梁間1間 切妻造 本瓦葺

鎮守社 一間社春日造 正面軒唐破風付 背面 切妻造 檜皮葺

 

 寛喜3年(1231)明恵上人の従兄弟、森景基によりこの地に最初の伽藍がつくられたが兵火で失なわれ、江戸時代前期から中期にかけ紀州藩や栖原総住人の努力で再建されたのが現堂宇である。

 本堂は千手観音を本尊とする三間堂で、内部は興味深い架構法を取り入れている。棟札から貞享3年(1686)に建てられたことがわかる。

 開山堂は小規模な三間堂で、本尊は明恵上人、棟札では明暦元年(1655)9月13日となっている。

 鐘楼は一般的な形式なもので、降棟鬼瓦に正徳3年(1713)の銘があり、木太くがっちりした建物で、彫刻や絵様が優れている。

 鎮守社は春日明神と住吉明神を祀る春日造の社殿で、様式から17世紀末から18世紀初期の建立と考えられる。

 これらの建物は、それぞれ趣の異なる様式と特徴をもち、小規模ながら優れた建築群を構成している。建立年代がほぼ明らかで、歴史的にも建築的にも貴重である。