紀伊 湯浅醸造町 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①大仙堀②大仙堀③角長④甚風呂⑤甚風呂⑥恵比須神社

 

訪問日:2020年1月

 

所在地:和歌山県有田郡湯浅町

 

 天文4年(1535)湯浅の赤桐右馬太郎が醤油100石余りを醸造し、魚や野菜を運ぶ便船で、大阪雑魚場の小松屋伊兵衛に送り、販売を委託した。

 

 これが湯浅醤油の出荷の始まりといわれ、角屋右馬太郎や油屋伝七らがこれに続いた。天正13年(1585)豊臣秀吉により紀州は平定され、豊臣秀長の所領となる。

 

 天正18年(1590)秀吉の小田原征伐において赤桐三郎五郎は兵糧米5石を献上し、その褒賞として大船一艘の相伝を許され、大量輸送が可能となる。

 

 慶長8年(1603)に刊行の『日葡辞書』(日本語をポルトガル語で解説した辞典)で、Tamari:Misoから取る非常に美味しい液体、、、との記載がある。

 

 同年、徳川家康が江戸幕府を開き、江戸の人口の増加とともに関東に巨大な需要が生まれ、上方のたまり醤油が江戸に出荷されるようになる。

 

 その関東では、下総国銚子の豪農・3代目田中玄蕃が元和2年(1616)摂津西宮の酒造家・真宜九郎右衛門の勧めで初めてたまり醤油の醸造を始めた(ヒゲタ醤油の起源)。

 

 元和5年(1619)家康の10男・徳川頼宣が紀州藩主となる。紀州藩は湯浅の醤油醸造を保護し、湯浅醤油の名声は一段と高まった。

 

 正保2年(1645)には湯浅の隣の広村出身の初代濱口儀兵衛が醤油醸造に適した銚子に移って関東に進出し、廣屋儀兵衛商店を創業する(ヤマサ醤油の起源)。

 

 正保4年(1647)にはオランダ東インド会社により醤油の国外輸出も開始されている。フランス王・ルイ14世(在位1643-1715)の宮廷料理にも日本の醤油が使用されたという。

 

 元禄10年(1697)銚子の5代目田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどの改良により、濃口醤油の醸造法を確立させ、生産効率を向上させた。

 

 江戸の町民にこれが受け、18世紀後半には関東の地回り醤油がいわゆる上方の下りものを凌駕するようになる。

 

 濱口家は紀州広村の本家と銚子を行き来しており、上方では播磨龍野発祥の淡口醤油が広まったが、湯浅では濃口醤油(湯浅たまり)の製法が令和の現在も踏襲されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区

 醸造町 平成18年12月19日 重要伝統的建造物群保存地区選定

 

■醸造の香りに生きる町

 湯浅は、平安時代末期頃から熊野参詣における宿所の役割を果たすなど、陸運・海運の要衝であり、商工業や漁業で栄えてきました。

 中でも鎌倉時代に中国から伝わった「金山寺味噌」の製造過程から生まれたといわれる醤油の醸造は、江戸時代に入ると紀州藩の保護を受けて販路が拡張され、湯浅の代表的な産業として発展しました。

 保存地区は、熊野街道西方の浜辺に16世紀末頃開かれたといわれる北町、鍛冶町、中町、濱町の醤油醸造業が最も盛んであった一帯にあって、醸造業関連の町屋や土蔵など近世から近代にかけての伝統的な建造物がよく残されている地区です。建物は、古いものは低い2階建で切妻造平入、本瓦葺を伝統とします。4本の「通り」を軸に「小路(しょうじ)」と呼ばれるいくつもの細い道が面的に広がる町並みには、今も昔ながらの伝統製法による醤油の芳香が漂っています。

 

湯浅町教育委員会

 

 

恵比須神社

 

 周辺の埋め立てにより現在は町中となっているが、元来は浜に面し、鳥居、石灯籠、門、本殿が海に向かって一直線に並んでいる。寛文元年(1661)に新屋敷が開かれた際、漁民相議してこの地に勧請したという。

 覆屋に納められた本殿は、一間社隅木入春日造、流し板葺で、門は簡素な薬医門である。細部の意匠から19世紀のものと見られ、石灯籠が文政6年(1823)の寄進であることから、その頃の建立と考えられる。祭礼は7月22日。

 

湯浅町教育委員会