紀伊 湯浅城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①遠景②石碑③湯浅温泉[湯浅城]④坂部池⑤鳥観図⑥測量図

 

訪問日:2020年1月

 

所在地:和歌山県有田郡湯浅町

 

 湯浅宗重は紀伊国有田郡湯浅の住人の藤原北家流・藤原宗永(湯浅左近大夫)の長男と伝わる。姉妹に鈴木重邦室(鈴木三郎重家の祖母)がいる。康治2年(1143)湯浅城を築き、広保山城から移った。

 

 平治元年(1159)熊野参詣のため紀伊にあった平清盛に平治の乱の発生を伝え、熊野別当・湛快とともに清盛の帰京に協力した。

 

 寿永4年(元暦2・1185)屋島の戦いに敗れた平忠房(重盛の6男)が陣を抜け出して、宗重を頼って湯浅に逃れ、宗重はこれを庇護する。

 

 壇ノ浦の合戦後、源頼朝による追討を受け、藤原景清ら平家の残党も集結し、3ヶ月にわたり湯浅城に籠城し、忠房の助命を条件に和睦した。

 

 鎌倉に出頭した忠房は京への送還途上に斬られたが、宗重は文治2年(1186)頼朝により所領を安堵され、その後も勢力を拡げ、湯浅党の基礎を築いた。没年は不明である。

 

 宗重の4女は高倉上皇に仕えた平(伊藤)重国に嫁ぎ、承安3年(1173)明恵(幼名・薬師丸)を産んだ。4男・上覚は神護寺の文覚に師事し、両親を亡くした幼い明恵は治承5年(1181)上覚に師事した。