豊前 中津 福澤諭吉旧居/寺町 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①福澤諭吉旧居②諭吉旧居内部③円龍寺④円龍寺閻魔堂⑤円龍寺織部燈籠⑥円応寺

 

訪問日:2019年9月

 

所在地:大分県中津市

 

 福澤諭吉は天保5年12月(1935年1月)中津藩大坂蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と於順の次男として生まれた。諱は範(はん)という。

 

 天保6年(1835)父の死去により中津に帰藩し、安政元年(1854)長崎へ遊学して蘭学を学び、翌年には大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。

 

 安政3年(1856)兄が死去して福澤家の家督を継ぐが、親類の反対を押し切り、金が無かったため食客として学び、翌年には塾頭となる。

 

 安政5年(1858)中津藩の命令で江戸中津藩邸内の蘭学塾の講師として江戸に出た。この「一小家塾」が後の慶應義塾の基礎となった。

 

 安政6年(1859)開国し、外国人居留地となった横浜を見物するが、オランダ語が全く通じず、独学による英語の勉強を始める。

 

 万延元年(1860)咸臨丸艦長で軍艦奉行の木村芥舟の従者として、勝海舟や小栗忠順、通訳の中浜万次郎らとともに渡米する。

 

 文久元年(1861)中津藩士・土岐太郎八の次女・お錦と結婚、文久2年(1862)竹内保徳を正使とする文久遣欧使節の翻訳方として欧州に派遣される。

 

 途中の香港で英国の植民地主義・帝国主義を目の当たりにして衝撃を受けたという。一方で日本に洋学の普及の必要性を痛感した。

 

 元治元年(1864)外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕、臨時ではなく150俵・15両を受け御目見以上の幕府直参旗本となる。

 

 慶応元年(1865)の第二次長州征伐への献策として、大名同盟に反対し、外国軍隊に依拠することも辞さないとの立場をとった。

 

 慶応3年(1867)小野友五郎を使節首席とする幕府の軍艦受取委員会随員として再渡米、帰国後の同年末、朝廷は王政復古を宣言する。

 

 慶応4年(1868)江戸城は開城、新政府は諭吉に出仕を求めるが辞退し、帯刀をやめて平民となり、蘭学塾を慶應義塾と名付けて教育活動に邁進した。

 

 明治5年(1872)から明治9年(1876)にわたって17編出版し、明治13年(1880)に合本された『学問のすゝめ』は累計340万部以上売れたという(当時の日本の人口は3000万人ほど)。

 

 明治10年代、憲法制定論議が高まる中、政府内では君主大権の独(ビスマルク)憲法を推す伊藤博文・井上馨と英国型の議院内閣制の憲法を推す大隈重信が対立する。

 

 明治14年(1881)大隈重信とそのブレーンであった慶應義塾門下生が政府から追放されると、諭吉は伊藤ら政府要人と絶交する。

 

 そのため伊藤らの要請を受け準備した政府系新聞の発行は頓挫、明治15年(1882)諭吉が独自に『時事新報』を発刊、慶應義塾が全面協力した。

 

 同年、来日した朝鮮の独立・近代化を志す金玉均や朴泳孝と親交を深め、朝鮮の近代化のため、清の影響力を排除すべきとの強硬な対清主戦論を展開するようになる。

 

 明治27年(1894)日本亡命中の金玉均が本国政府に上海に誘き出されて暗殺されると、主戦論は高まり日清戦争が勃発、諭吉は日本政府・軍を支持した。

 

 明治31年(1898)脳溢血を発症し、この時は回復するものの明治34年(1901)に再発し、帰らぬ人となった。享年68(数え年)。

 

 

以下、現地案内板より

 

福澤公園の説明

 

 中津市留守居町にあるこの旧居は明治の初め福澤諭吉先生の家族が東京に転居した後、渡辺氏(親戚)が住んでいました。次いで旧藩主奥平家の所有となり明治43年同家より市に寄付され、その後当市が管理しています。

本公園の面積は5,200㎡(約1,576坪)で昭和46年本旧居ならびに前側の宅跡が国史跡文化財の指定を受けました。

福澤旧居、諭吉が少年期をすごした家で木造藁葺平家建107㎡(約32坪)。宅地380㎡(115坪)

土蔵 勉強部屋にしたと伝えられ木造瓦葺二階建15㎡(約4.5坪)

福澤記念館 昭和5年5月御大典記念事業として建設されましたが、その後先生の生誕140年を記念して昭和50年11月現地に移転新築しました。館内には福澤先生の書かれた数多くの著書や写真、遺品、遺墨、などを展示してあります。

銅像 先生の徳風をとこしなえに伝えるため昭和5年に建立されました。

宅跡 先生が凡そ15年間、少年の頃住まわれた宅跡で間口二間半奥行十五間ほどあります。

独立自尊の碑 中津公園にあり明治37年建設されました。

 

中津市

 

 

閻魔さんのお寺  岡谷山 圓龍寺

 

 當山は寛永年間に、小笠原長次公が播州龍野(7万石)から中津藩主として入国したとき、専譽上人を開山として開いた。阿弥陀如来を本尊にまつる。

 山門を入って左手に観音堂、焔魔堂があり子安観世音菩薩、右手奥に閻魔さまと、葬頭河婆(奪衣婆)が安置され、老若男女から恐れられ、親しまれ大衆を仏心へ導いてくださるという民族信仰が伝承されている。

 また、境内の墓地には小笠原、奥平家の家臣や水島銕也、南画の片山九畹の墓がある。

 

中津市 中津の郷土史を語る会

 

 

圓龍寺 閻魔大王縁起

 

閻魔大王は印度の神話に登場する世界の統治者夜魔で、佛教にとり入れられ地蔵菩薩の化身として来世衆生を救うために出現され給うたのである

悪業は日日に募り善業は劣るを哀慈し衆生に善悪の宿業を浄頗梨の鏡に顕し知らしめて「地獄の業火は自らが造る業(カルマ)によって燃える、恐るべし慎べしと

大王は内に慈悲を蔵し、外に勧善懲悪の相を現し、『汝仏法流布の世に生れ何ぞ修行せず徒らに三途に帰り来るや』と戒め給うておられる

當山圓龍寺の閻魔大王は、往昔下毛郡金谷の産中津藩士某氏が江府において旗本衆へ相勤め居るとき、家の娘を奪い帰る途中、箱根山中でその娘を鬼女に喰れ途方にくれ一夜をさゆの河原の一宇に求めた。そのお堂に安置する閻王を祈念するうちに懺悔の念頻りに起り終にその場を離れ難き故に大王の御頭を写し彫刻奉り背負い参りて、大阪の大仏師に御胴躰を彫刻し給い海路帰国し高瀬村に草庵を繕い安置奉るが儘我が宿業果報べき様なく、此時中津圓龍寺第二代月単上人名僧なりし故帰依し、法名を改め光譽浄薫善士と下され念佛三昧の善門となり、其己来 圓龍寺に於て閻魔堂を願主となりて建立、大王を此地に移し奉る。

昼夜を分たず執行の道心是也。増々念佛共に寄依の人々繁盛に及び候也