豊前 赤壁 合元寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①山門②延命地蔵菩薩堂③赤壁④本堂⑤庫裏

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:大分県中津市

 

 城井貞房は天文5年(1536)豊前宇都宮氏15代・城井長房の子として生まれた。長房の正室は大内義興の娘だが、貞房の母の名は伝わっていない。

 

 長房が本家の下野宇都宮氏の内紛への介入に熱心だったため、若い頃から領国の管理を任され、義興の子・大内義長に属していた。

 

 弘治3年(1557)義長が陶隆房の謀反により滅ぶと、豊前を制した大友義鎮(宗麟)に従ってその妹を正室とし、一字を拝領して鎮房と改名した。

 

 しかし天正6年(1586)耳川の戦いで宗麟が島津義久に乾杯すると、筑前秋月氏らとともに大友氏を見限って島津氏に従った。

 

 天正14年(1586)鎮房は豊臣秀吉の九州征伐に従ったが、自らは病気と称して嫡男・朝房にわずかな兵を与え参陣したのみであった。

 

 天正15年(1587)秀吉は鎮房に伊予国への移封と鎮房所有の藤原定家『小倉色紙』の提出を命じたが、鎮房はこれを拒否する。

 

 鎮房は本拠・城井谷城に籠城し、新たに豊前6郡の領主となった黒田孝高の嫡男・黒田長政率いる豊臣勢の攻撃を受けるが、地の利を生かして撃退した。

 

 孝高が持久戦に転じたため、鎮房は本領安堵と朝房と13歳の娘・鶴姫を人質とすることで和睦した。しかし秀吉は鎮房を許さなかった。

 

 天正16年(1588)4月20日、長政の招きにより中津を訪れるが、家臣団は合元寺に留め置かれ、わずかな供とともに中津城に入った鎮房は酒宴の席で謀殺された(53歳)。

 

 合元寺の家臣団も黒田勢により全員が討ち取られた。22日、肥後国人一揆鎮圧のため孝高に従っていた朝房も暗殺、同日に鶴姫も13人の侍女とともに磔刑された。

 

 24日、83歳にして健在であった長房も城井谷城に攻め寄せた黒田勢により一族とともに討ち取られた。長政は中津城内に城井神社を創建し、その霊を祀った。

 

 ただ、懐妊していた朝房の正室・竜子(秋月種実の娘)は宝珠山に逃れ、生まれた子は種実が引き取り、後に宇都宮朝末と名乗った。

 

 朝末は早世したが、孫の信隆が越前松平藩に召抱えられ、微禄ながらも越前藩士として子孫は明治維新を迎えている。

 

 

以下、現地案内板より

 

合元寺

 

 黒田官兵衛が姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移して、空誉上人という僧を開山に迎えて寺院を建立しました。

 黒田氏の入国に反対した宇都宮鎮房が中津城内に誘殺された時、鎮房の従臣たちが待機していたこの合元寺にも黒田の手勢が押しかけました。鎮房の従臣は奮戦しましたが、ことごとく斬り伏せられ、壁はその血で赤く染まったそうです。その後壁は何度白く塗っても血が染み出してくるので、ついに赤く塗ったといいます。寺は赤壁寺ともよばれています。

 

中津市教育委員会

 

 

赤壁 合元寺

 

通称「赤壁」といわれるこの寺は浄土宗西山派、開山空誉上人は天正15年(1587年)黒田孝高(如水)に従って姫路から中津に来鍚した。その後、天正17年4月、孝高が前領主、宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘殺したとき、その従臣らが中津城を脱出し、この寺を拠点として奮戦し、最期をとげた。

以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、遂に赤色に塗られるようになった。当時の激戦の様子は現在も庫裏の大黒柱に刃痕が点々と残されている。また戦死した宇都宮鎮房の家臣は合葬し、寺内の延命地蔵菩薩に祀り菩提を弔った。その空誉上人は宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で、世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ、慶長16年黒田長政に福岡城で誘殺された。という哀史を秘めた寺である。

寺内には、三浦梅園、倉成龍渚の師、儒学者藤田敬所(藤貞一)の墓がある後のお堂は経蔵である。

 

中津市教育委員会

中津の郷土史を語る会