筑前 元寇防塁(百道/西新) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①百道地区②元寇神社

③西新地区④西南学院大学1号館⑤西南学院大学1号館⑥西南学院大学1号館

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:福岡市早良区

 

 大友氏の初代・大友能直は源頼朝の近習を務め、建久7年(1196)豊前・豊後守護及び鎮西奉行となり豊後に入った。承元元年(1207)頃には筑後の守護にも任ぜられた。

 

 能直の孫である大友頼泰は貞応元年(1222)大友氏2代・大友親秀の嫡男として生まれた。頼泰は嘉禎2年(1236)親秀より家督を継ぎ、御家人として主に京都、鎌倉で活動した。

 

 文永9年(1272)元寇の危機が迫ると、執権・北条時宗から鎮西東方の奉行に任ぜられて豊後に下向、少弐氏とともに元の襲来に備えた。

 

 文永11年(1274)文永の役では鳥飼潟の戦いを指揮し、元軍の侵攻を阻止、弘安4年(1284)弘安の役でも志賀島の戦いで元軍を破り、志賀島から駆逐した。

 

 弘安の役に勝利した鎌倉幕府は頼泰か少弐経資を大将軍として九州3ヶ国の御家人らを中心に高麗征伐を計画したが、御家人らの困窮のためか中止された。

 

 その後、頼泰は隠棲して正安2年(1300)相模国で死去するが、4代・親時以降、大友氏は豊後に土着し、6代・大友貞宗は元弘3年(1333)少弐貞経とともに鎮西探題・北条英時を攻め滅ぼした。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 元寇防塁

 

 元寇防塁は文永11年(1274)の蒙古襲来後に、再度の来襲に備えて博多湾沿岸の西は今津から東の香椎まで約20㎞にわたって築かれた石塁です。

 「元寇防塁」のことを古文書では「石築地」と記されていますが、大正2年、中山平次郎博士が「元寇防塁」と仮称し定着したものです。鎌倉幕府から防塁築造の命が九州各国に下され、防塁は建治2年(1276)の3月から8月までの短期間で築造されました。現在のところ当地区を含む百道浜一帯の防塁築造を分担した国は不明です。

 築造にあたっては、幕府の支配下にあった御家人だけでなく、荘園にも負担が課さられ、所領の規模に応じて築造する長さが割り当てられました。

 石塁の高さは2.5~3m、築造の工法は各地区によって異なりますが、石材は近くの沿岸部の丘陵や能古島から運んだものと考えられます。元寇防塁は1281年の弘安の役で、元軍の上陸を阻止する役割を果たしました。その後14世紀の半ば頃まで防塁の修理の記録がみられますが、以後、埋没し現在に至っています。

 「元寇防塁」は昭和6年に今津、生の松原、姪浜、西新(当地とこれより東へ300mの地点の2箇所)、地行、箱崎の各地区が国指定史跡となり、保存されています。

 

2001年3月 福岡市教育委員会 福岡森林管理署

 

 

国指定史跡 元寇防塁

 

 13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その後、5代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。しかし鎌倉幕府はこれに応じなかったため、1274年博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し九州の御家人たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役)。

 幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、1276年3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20㎞にわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警護させました。

 防塁は各国の分担地区によってその構造が違うことが分かっています。石材は近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの工法が採用されています。防塁の高さは2.5~3mほどと考えられます。

 この西新地区(当時の百道原)分担国は分かっていません。防塁の構造は粘土による基礎工事を行い、基底部幅3.5mの前面と後面に石積みをし、その間を砂と粘土でつめています。石材の節約をはかった独特の工法となっています。

 1281年元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした。(弘安の役)

 元寇防塁は、1931年(昭和6年)、国の史跡に指定され、保存されています。

 

2000年3月 福岡市教育委員会

 

 

元寇

 

 13世紀初めにチンギス・ハンによって築かれたモンゴル帝国(元)は、アジアからヨーロッパにおよぶ支配圏を形成しましたが、世祖フビライの時に2度にわたって遠征軍を送り日本も傘下に収めようとしました。1回目は南宋の攻撃がほぼ完了した1274(文永11)年のことで、朝鮮半島にあった高麗を服属させ、次に、日本に対して朝貢と国交を迫りました。これに失敗すると、高麗兵を主力とする約28,000人の兵力で博多湾に侵寇し、日本軍と激戦を展開しましたが、たまたまの大暴風雨で兵船が壊滅的打撃を受け、撤退しました(文永の役)。元の再襲を恐れた鎌倉幕府は博多湾岸に石築地(元寇防塁)を築くなど、防衛体制を整えました。元は1281(弘安4)年に、蒙古、漢、高麗人からなる東路軍と旧南宋軍を主力とする江南軍の計14万人の大軍で、2回目の遠征をしてきましたが、この時も暴風によって兵船を失うなど、得るところなく撤退しています(弘安の役)。この侵略事件は、蒙古合戦・蒙古襲来・元寇などと呼ばれています。

 元は3回目の日本遠征の準備を進めていましたが、フビライの死によって断念したため、東アジア・東南アジアでは日本はジャワとともに元の支配を免れた数少ない国となりました。

 

 

元寇防塁

 

 元寇防塁は、鎌倉幕府が文永の役後に元の再度の襲来に備えて九州各国の御家人などに造らせた、今津から香椎まで約20㎞におよぶ防衛施設です。防塁の構造は一様でなく、前面(海側)に石積みする点は共通しますが、後面は分担国によって異なります。もっとも見事なのは大隅国・日向国分担の今津地区で、後面も石積みし、内部に石材を詰めています。

 本学第1号館の新築にあたって検出された元寇防塁は、体育館南側などに保存されている西新地区元寇防塁と同様に、2.4mの本体の両面を石積みで堅固に整え、中に粘土と砂を交互に詰めていました。石積みは基底部をわずかに残すほどのもので保存状態は良くありませんでしたが、石塁の南側に約1mの間隔をおいて幅1.5m、高さ1.3mほどの粘土と砂を交互に積み重ねた土塁を検出しました。分担国はわかっていません。

 このように、今回の調査では元寇防塁に石塁と土塁の二列構造になる部分があるという事実を明らかにでき、元寇防塁研究に新たな視点を提供する大きな成果を得たことになります。

 

 

 

元寇防塁(西新)(2002年)