豊前 中津城② | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①模擬天守②本丸を望む③内堀④水門跡⑤西門跡⑥生田門

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:大分県中津市

 

 細川興秋は天正11年(1583)細川忠興の次男として、母・玉(明智光秀の娘=細川ガラシャ)幽閉中の丹後国味土野で生まれた。

 

 細川忠隆(長岡休無)は3歳年長の同母兄、細川忠利は3歳年少の同母弟である。母の影響により洗礼を受けたキリシタンという説がある。

 

 文禄3年(1594)当時子のなかった叔父・細川興元の養子となる。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを前に母が大坂の屋敷で最期を遂げる。

 

 興秋は父・兄・養父らとともに戦功を挙げ、父は丹後他18万石から豊前・豊後に39万9千石に増封され、中津城の大修築に着手する。養父・興元は小倉城代となった。

 

 慶長6年(1601)忠興と不仲になり出奔した興元に替わり小倉城代となる。慶長7年(1602)忠興は小倉城を修築して居城とし、入れ替わりに興秋は中津城代となる。

 

 慶長9年(1604)忠隆が忠興に勘当され廃嫡となる。替わって人質として江戸にあり、将軍・徳川秀忠の信頼厚い忠利が世子となった。

 

 慶長10年(1605)忠利の身代わりとして江戸に向かう途中、興秋は細川家を出奔し、京都建仁寺で剃髪し、京都にあった祖父・細川幽斎を頼る。

 

 当時、京都では興元・忠隆と興秋が幽斎の庇護を受けていた。慶長13年(1608)中津城の忠利のもとに秀忠の養女・千代姫(小笠原秀政の次女)が輿入れする。

 

 慶長15年(1610)幽斎死去の後、興元が下野国芳賀郡1万石に取り立てられる。慶長19年(1614)興秋は豊臣秀頼の招きを受け大坂城に入城する。

 

 慶長20年(1615)興秋は道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いなどで奮戦するが敗北して離脱、伏見の細川氏家老・松井氏の菩提寺・東林院に匿われた。

 

 しかし、父・忠興は赦さず、興秋は東林院で切腹した(33歳)。一方で忠興の密命により天草に逃れて子孫は大庄屋となったという享和2年(1802)の家系図が残る。

 

 

以下、現地案内板より

 

蘭学の里・中津と中津城

 

 中津藩は、前野良沢から福澤諭吉に至るまで、多くの蘭学者を輩出し、日本の洋学の近代化の為に多大な貢献をした藩である。

 中津藩主3代目・奥平昌鹿(1744~1780)は、母の骨折を蘭方医吉雄耕牛が見事に治療したことから、蘭学に興味を抱いた。明和7年(1770)、藩医の前野良沢を中津に連れて帰り、長崎に留学させた。良沢は、藩主の期待に応え、オランダ語で書かれた解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白等と翻訳し、蘭学の開祖となった。その成果は安永3年(1774)、杉田玄白、中川淳庵等により『解体新書』として出版され、近代医学の発展に大きく貢献した。

 中津藩主5代目・奥平昌高(1781~1855)は、薩摩藩・島津家からの養子であり、実父島津重豪(1745~1833)とともにシーボルトとの親交を深め、自らもオランダ最初の和蘭辞書『蘭語訳撰』を、文政5年(1822)には、日本で3番目の蘭和辞書『中津バスタード辞書』を出版し、蘭学の普及に努めた。これらの辞書に関与した蘭学者は、前者は神谷弘孝、後者は大江春塘(1787~1844)である。2冊の辞書は併せて「中津辞書」とも称されオランダのライデン大学で日本語を学ぼうとするオランダ人にも、大いに利用された。文政2年(1819)、昌高は、藩医村上玄水(1781~1843)による九州で史料が残る最初の人体解剖を許可した。玄水は、解剖の詳細な記録を『解臓記』として残し、生家は、3000点の医学史料を蔵する「村上医科史料館」として、中津市諸町に保存公開されている。

 嘉永2年(1849)、辛島正庵を筆頭とする中津の医師10名は、長崎に赴き、バタビア(現ジャカルタ)由来の痘苗を入手し、中津に持ち帰って種痘を実施し成功した。この年は種痘元年ともいわれ、日本で最も早い時期の成功であった。なお、辛島家では、種痘を含めた400点を越す医学史料が発見されている。種痘の成功により、多くの子供の命が救済された。この事に感動した住民からのボランティア基金により、文久元年(1861)、勢溜に「医学館」が設立され、種痘所としても大いに活用された。明治に入り「医学館」は、奥平家が、年に米225俵を提供して、西洋医学教育の必要性から「中津医学校」へと発展的に改称された。

 明治4年(1871)、中津医学校校長に就任した大江雲澤(1822~1899)は、〝医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す″という医訓を示し、外科医としてのみならず、教育者としても優れた業績を残した。市内鷹匠町にある大江家からは、世界で初めて全身麻酔による手術図が発見された。その他に『解体新書』や『重訂解体新書』なども発見されている。当時の中津藩から華岡塾の大坂文塾に5名の医師が派遣され、学んでいたことが明らかになった。前野良沢を生んだ蘭学研究の流れが、幕末に至ってもなお続いていたことが伺える。

 中津出身の外科医として、陸軍・軍医学校校長を務めた田代基徳(1839~1898)がいる。松本良順(1832~1907)等と医学会の前身である「医学会社」を起こしたり、『外科手術』や『医事新聞』を発行するなど幅広い活動を行なった。基徳は、大坂にある緒方洪庵の適塾に学んだ。そこでは中津から福澤諭吉をはじめ11人が学び、幕末の中津藩蘭学に大きな影響を及ぼした。基徳の養子田代義徳(1864~1938)は、初代東大教授に就任し、整形外科の開祖にふさわしい活躍をした。さらに、日本の歯科学の開祖小幡英之助(1842~1909)や、近代医学史上に残る心臓の刺激伝導系の発見者田原淳(1883~1952)など、中津には次々と医歯学のパイオニアが出現した。

 洋学史上に残る中津人の活躍した背景には、藩を挙げて蘭学に取り組み、学ばせた藩主のリーダーシップがあったと考えられる。時代に対して先見の明があり、人材育成を怠らなかった中津藩の仕上げは、福澤諭吉によって行なわれた。諭吉は自ら蘭学を学んだことで、前野良沢達が翻訳を成し遂げた苦労を顕彰する為、杉田玄白が晩年著した『蘭学事始』を、明治2年(1869)に復刻させた。その序文の中で諭吉は―良沢達パイオニアの苦労は涙無しには語れない―と述べている。

 中津城には中津の「蘭学の光芒」を示す史料が数多く展示されている。

 

 

 

中津城(2002年)