壱岐 勝本城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主郭枡形②主郭枡形③枡形より辰ノ島④高石垣⑤石垣​​​​​​​⑥遠望

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:長崎県壱岐市

 

 豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際し、名護屋城から朝鮮半島への経由地である壱岐島に勝本城、下対馬に清水山城、上対馬に撃方山城を築かせた。

 

 この時、勝本城に在番した本多俊政(利朝・正武・俊正)は本多利久(水野利忠)の長男として生まれた。利忠は尾張上四郡守護代・織田信安の家臣だったという。

 

 本多正重(本多忠勝とも)から本多姓を与えられ、水野氏から本多氏に改姓したというが、その経緯や時期は不明。

 

 父はその後羽柴秀吉に仕えて弟の羽柴秀長付きとなり、俊政も秀長に仕えた。高取1万5千石を与えられた利久は、天正17年(1589)高取城を整備する。

 

 天正19年(1591)秀長が死去し、13歳の養嗣子・豊臣秀保に仕えた。天正20年(1592)文禄・慶長の役で秀保は1万5千を率いて名護屋に滞陣する。

 

 俊政は前述の通り、壱岐勝本城に500を率いて在番し、朝鮮半島への兵站物資の海上輸送と島内の治安維持を担った。

 

 文禄4年(1595)秀保が17歳で病死して大和豊臣氏が断絶すると、俊政は秀吉の直臣となり、紀州代官を務めた。

 

 慶長5年(1600)会津征伐に従い、関ヶ原の戦いではそのまま東軍に与する。西軍が高取城を攻めたが、俊政の従弟・本多正広らがこれを撃退した。

 

 功により2万5千石に加増された。慶長8年(1603)利久が死去し、正式に家督を継ぐが、慶長15年(1610)死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

国史跡勝本城跡

 

長崎県壱岐市勝本町(城山公園内)

 

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に築城した出城で、国の史跡に指定されています。

壱岐島も最北端に位置する城山に、松浦鎮信(法印)(平戸・壱岐領)が中心となり、有馬晴信(南島原日野江領)、大村嘉前(大村領)、五島純玄(五島福江領)などの領主の協力によって4ヵ月の月日で1591 (天正19)年に完成し、朝鮮半島に渡る兵士の食糧や武器などの補給を行う兵站基地の役割を果たしました。

現在、城山には御座所を取り囲む石垣や御座所に出入りする枡形の大手門跡など築城時の面影が残っており、天気がいい日には対馬島を望むことができます。