壱岐 勝本山 能満寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本堂②山門③石段④仏堂⑤曾良の墓⑥勝本港の眺望

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:長崎県壱岐市

 

 昭和13年(1938)芭蕉研究家・山本安三郎が静岡県伊東市の古美術収集家の家でいわゆる『曾良旅日記』を発見し、芭蕉250回忌の昭和18年(1943)『曽良奥の細道随行日記・附元禄四年日記』として出版した。

 

 そこには曽良が奥州行脚に備えた「延喜式神名帳抄録」「歌枕覚書」とともに芭蕉に随行した際の「元禄二年日記」、曽良が江戸から伊勢長島へ旅した「元禄四年日記」、奥州行脚中の「俳諧書留」などがあった。

 

 曽良が宝永7年(1710)壱岐で客死した際、これらは親しかった蕉門十哲の一人・杉山杉風が預かっていた。その後、『おくのほそ道』の写本(曾良本)とともに桐箱に収められ、曽良の生家・高野家に送られた。

 

 元文5年(1740)高野家が断絶すると、信州上諏訪の曽良の母の生家である河西家の当主で曽良の姉の子を妻とする俳人・河西周徳(1695-1740)が管理し、曽良の遺稿集『雪丸け』を編纂した。

 

 その後、日記他曽良の遺品を高島藩士の俳人・久保島若人1763-1851)が58両で買い受けたが、10両しか支払わずに江戸に転売してしまったという。

 

 河西家は高島藩に訴え、久保島は処罰されたものの日記他は戻らなかった。その後、出雲母里藩の松平志摩守が買い上げたと記録に残り、明治になって大阪から伊東に渡ったようだ。

 

 『曾良旅日記』には『おくのほそ道』との間に多くの齟齬があり、紀行とはいえ『おくのほそ道』には脚色があったことなどがわかった。

 

 

以下、現地案内板より

 

勝本と曾良(蕉門十哲の一人)

 

曽良のおいたち

 河合曽良は慶安2年(1649)、信州上諏訪に生れた。父は高野七兵衛。姉一人、弟一人がいた。

 幼時に両親と死にわかれた曽良は、母の生家である河西家にひきとられ、その後、伯母の生家である岩波家の養子となり、岩波庄右衛門正字と名のった。

 曽良12才の時(万治3年・1660)、養父母(岩波氏)の死にあい、伯父である伊勢長島(三重県桑名郡)の大智院住職・秀精法師にひきとられ成人した。この縁でのちに伊勢長島藩(2万石)に仕官し、藩主・松平土佐守康尚、忠利の父子につかえ、河合惣五郎と称している。河合姓は、母の生家である河西家の旧称であった。

 

芭蕉と曽良

 長島松平家の滅亡後、曽良は江戸へのぼり、神道家・吉川惟足(吉川流神道の創始者)に入門、国学を学んだ。また、地誌学を並河誠所に学んでいる。

 当時、芭蕉は江戸深川六間堀にいた。

 曽良は芭蕉の門下に入った。天和2年(1682)か3年頃といわれている。曽良は芭蕉より5歳下であったが、芭蕉への随順ぶりはひとかたでなく、芭蕉もまた、小まめに自分の身辺の世話をする曽良の人柄が好ましかったようである。

 俳号の曽良は、(長島に伝わる言い伝えでは)「長島の地が、木曽川と長良川とにはさまれていたので、両河川の曽と良をとり俳号とした」という。

 曽良は芭蕉の旅につき従っている。

 貞享4年(1687)8月、芭蕉の鹿島もうでに宗波とともに随行し、『鹿島紀行』に次の句をのこす。

  雨はねて 竹おきかへる 月見かな

  膝折るや かしこまり鳴く 鹿の声

  もも引や 一花摺の 花ころも

  花の秋 草にくひあく 野鳥かな

 

奥の細道と曽良

 そして、元禄2年(1689)3月27日、芭蕉の最大の旅である奥の細道紀行に同道する。曽良41歳であった。

 芭蕉は『奥の細道』のなかで、同行者・曽良について次のように書いている。

曽良は河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉(芭蕉庵の近く)に軒をならべて、予が薪水(家事炊事)の労をたすく。このたび、松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅(旅)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃りて墨染にさまをかへ、惣五を改めて宗悟とす。

 曽良は、姿を僧形に改め、名も宗悟と改めての旅立ちであった。次の句をのこす。

  剃捨て 黒髪山に 衣更

 曽良は体が弱く、百数十日にもおよぶ旅の終りちかくの北陸路で、腹痛に苦しむ。

 芭蕉の足手まといになることをおそれた曽良は、加洲やまなかの湧湯(石川県・山中温泉)で芭蕉とわかれる。『奥の細道』に「曽良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に、、、」とある。伯父の秀精法師をたよるのである。

  行々て たふれ伏とも 萩の原   曽良

  今日よりや 書付消さん 笠の露   芭蕉

 師弟の別れの句である。芭蕉の笠には「乾坤無住、同行二人」と書かれていた。この同行二人の字を消さなくてはならない、と悲しんでいる。「行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ。隻鳬(二羽の雁)のわかれで雲にまよふがごとし」と『奥の細道』にある。なお、同書中に曽良の句がのこる。

  かさねとは 八重撫子の 名成るべし

  卯の花を かざしに関の 晴着かな

  松嶋や 鶴に身をかれ ほととぎす

  卯の花に 兼房みゆる 白毛かな

  蠶飼(養蚕) 人は古代の すがた哉

  湯殿山 銭ふむ道の 泪かな

  象潟や 料理何くふ 神祭

  波こえぬ 契ありてや みさごの巣

  終宵 秋風聞や うらの山

 奥の細道紀行中、曽良は克明な旅日記をつけている。いわゆる『曽良随行日記』である。昭和18年(1943)にはじめて世に出たもので、これによって『奥の細道』の研究が一段と深まった。現在、奈良市の天理大学に所蔵されており、国の重要文化財に指定されている。

 同日記により、曽良が道中の古社を、あらかじめ『延喜式』で調べ、芭蕉に説明したことなどを知ることができる。用意周到な旅立ちであったのである。

 

巡見使と曽良

 江戸幕府に巡見使という不定期の制度があり、将軍の代替りの1年以内に発令されるのが常であった。

 巡見使とは、全国津々浦々の治世の実情を見てあるくもので、その長には旗本の小姓組番、書院番から各一人が選ばれた。一つの巡見使団は35人で構成された。その中には旗本の家来や、臨時やといの者も含まれている。

 宝永6年(1709年)1月10日、将軍徳川綱吉死去、同年5月10日、家宣 将軍に就任。同年10月23日、巡見使発令。同月27日、巡見使の国々分担発令。

 この結果、九州担当の巡見使として次の人々が発令された。

  御使番  小田切靭負直広

  小姓組番 土屋数馬喬直

  書院番  永井監物白弘

曽良はこの年、62才である。右記3名のうちのだれかのまた家来となって九州に下った。吉川一門の推せんがあったとも、対馬に俳友がいたとも言う。

 元禄7年(1694)10月、芭蕉没。同年11月、吉川惟足没、両師を失なった曽良が失意の日々を送った後の、九州行であった。

 曽良の友人・関祖衡は、旅立つ曽良に「庚寅(宝永7年・1710)の春、巡国使某君に陪して、しらぬひのつくしの国に赴よし」との送辞を送っている。曽良は、

  春にわれ 乞食やめても 筑紫かな

 の句を作り、江戸をあとにした。

 宝永7年(1710)3月1日、江戸をたった巡見使の一行は大坂から海路をとり、筑前国若松(北九州市)に上陸。その後、福岡城下(同年4月27日)、呼子(佐賀県)をへて壱岐郷ノ浦に上陸した。宝永7年5月6日であったという。

 巡見使の一行は、郷ノ浦に一泊、勝本に一泊した。勝本では海産物問屋の中藤家に泊り、翌朝、対馬へ向った。

 曽良だけは中藤家にのこった。病気であったらしい。そして、宝永7年5月22日死去した。曽良の墓は中藤家の墓地にある。辞世の句は伝わっていない。62才であった。

  宝永七庚刀夭

   賢翁宗臣居士 也

  五月二十二日

江戸の住人岩波庄右衛門尉塔

 の墓銘碑がある。

 国指定史跡・勝本城址に、「春にわれ乞食やめても筑紫かな」の句碑が建つ。

 曽良の二百二十五回忌にあたる昭和9年(1934)5月にたてられたもので、文字は俳人・塩谷鵜平の手である。

 

昭和53年3月 勝本町教育委員会