訪問日:2019年8月
所在地:長崎県壱岐市
「しょうもぐう」と訓む。聖母とは神功皇后のことで、もちろんキリスト教とは何の関係もない。後の応神天皇を身籠りながら「三韓征伐」を成し遂げたという人で、ここは壱岐における行宮であったという。
神功皇后の父は第9代・開化天皇の玄孫・息長宿禰王、母は新羅王子・天日矛(アメノヒボコ)の裔である葛城高額姫と伝わる。
皇后はここから対馬、朝鮮半島へ出陣し、新羅・百済・高句麗を服属させたと『日本書紀』は伝えている。真偽の程は定かでないが、古代日本から朝鮮半島に出兵した人物がいたことは間違いないと思う。
一方で、ここには「文永之役 元軍上陸地」の石碑も建っている。また、近くには立派な櫓台のようなものを伴う石垣が聳えており、聖母宮に門を寄進した加藤清正が壱岐滞在中の陣所として築いたという。
壱岐島の北の玄関口として、対馬、そして大陸へ向かう船が行き交っていたのであろう。現在、勝本港には多くの漁船が停泊しているが、対馬へ向かう船は印通寺港と芦辺港のみとなっている。
以下、現地案内板より
聖母宮
旧号 香椎大明神 聖母大菩薩
鎮座地 壱岐郡勝本町勝本浦正村
祭神 息長足姫尊(神功皇后)
足仲彦尊(仲哀天皇)
誉田別尊(応神天皇)
住吉大神
配祀 天照大神
由緒 『壱岐名勝図誌』によると、仲哀天皇の9年神功皇后は肥前唐津の神集島で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎より壱岐に向けて3,270艘の軍船を出発させた。
この時船が進むのにつごうの良い東風が吹きはじめた土器崎の地を風本と名づけ東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけた。
壱岐すなわち風早の島についた皇后は風まちをして対馬の鰐津に向けて出帆した地を風本と名づけ、三韓からの帰りに再び立ち寄られ出兵の勝利を祝い勝本と改められたという。
皇后は、出兵の往来にさいし行宮を勝本に建てられたが、御殿はその後放置されてしまった。
しかし毎夜海中から光る物があがってくるという出来事が続いたので里人は鏡を御陵に納めて、神功皇后を神としてまつったのがこの神社であると伝う。
また、一説には異敵の首101,500を持ち帰った皇后は風本の浜に穴を掘って埋められ、9町8反の石の築地を一夜で築きその上に宝殿をつくり、聖母の社を建てられたとある。
文化財 昭和47年に長崎県指定有形文化財とされた茶壷が有名
壺の銅部に『進入、日本いきしま、風本宮、聖母大菩薩、御神物ちゃいれ、是ヲ心サス、喜斉、百良内村生、宗靍沙門(花押)天正廿年 敬白』の銘がある。
その他に数多くの文化財が伝えられているが神社の西門と南門は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折りに、加藤清正と鍋島直茂によって造営寄進されたと伝えている。
この西門(正門)の前方には、神功皇后の御乗馬の足跡がのこるという馬蹄石がある。