若狭 国吉城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本丸櫓台

②本丸北西虎口

③堀切石垣④Ⅲ郭カラⅡ郭を見る⑤二の丸喰違虎口⑥居館石垣

 

訪問日:2019年7月

 

所在地:福井県三方郡美浜町

 

 粟屋氏は甲斐源氏・安田氏の末裔で粟屋勝久は宗家の若狭守護・武田義統に仕える武田四老の1人(他に内藤重政・熊谷直之・武藤友益)であった。

 

 弘治2年(1556)義統は父・武田信豊と対立して若狭は内乱状態となった。勝久は国吉城を築いて信豊に与した。

 

 同じく信豊に与した高浜城主・逸見昌経らとともに義統勝利後も従わず独立すると、義統は越前の朝倉義景に援軍を要請し、朝倉勢を若狭に招き入れる。

 

 これに対して勝久は義統の子・元明を擁立して抵抗、永禄6年(1563)から永禄12年(1569)まで毎年のように朝倉勢を国吉城に迎え撃ち、不落を誇った。

 

 その間の永禄10年(1567)義統が死去し、永禄11年(1568)には元明が朝倉勢によって越前へ連れ去られても、勝久は抵抗をやめなかった。

 

 そして織田信長の勢力が湖西にまで及ぶと、元亀元年(1570)信長の越前攻めではこれに協力し、国吉城を信長の宿所として提供した。

 

 天正元年(1573)再度の越前攻めでは一乗谷一番乗りを果たして元明を救出、その助命は許されるが、戦後若狭は丹羽長秀が領し、勝久はその娘を娶り配下となった。

 

 天正10年(1582)本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕えるが、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの後は木村定光(重成の父か)が8万6千石で国吉城に入っている。

 

 勝久の最期については不明だが、天正13年(1585)死去したともいう。孫の粟屋勝長は豊後臼杵藩士となり、子孫は家老職を務めて明治維新に至る。

 

 

以下、現地案内板より

 

国吉城址概略

 

 美浜町指定史跡国吉城址は、若狭国守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中守勝久によって、弘治2年(1556)に築かれた中世の山城跡である。通称(城山)の最高所(標高197.3m)を本丸とし、北西に延びる尾根上には段々の削平地(曲輪)が連続し、その先端に丹後街道が通る椿峠があった。尾根の斜面は切り立って急であり、守り易く攻め難い城であった。実際に、永禄6年(1563)から数年におよぶ勝久と越前朝倉氏との戦いにおいては、城を守り通して名声を内外に轟かせ、その活躍は「若州三潟郡国吉籠城記」などの軍記物にまとめられた。元亀元年(1570)、越前攻めのために木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、城を守った勝久を褒め称えたと伝わる。

 その後、天正11年(1583)に入城した木村常陸之介定光は、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行い、佐柿の町を興した。江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永11年(1634)に若狭国の領主となった酒井忠勝は、町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を置いた。以降、佐柿は三方郡の中心、丹後街道の宿場町として繁栄し、現在も当寺の景観を色濃く残した古い町屋や寺社が現存している。

 

平成15年3月

美浜町教育委員会