若狭 佐柿陣屋(佐柿町奉行所) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①石垣②石垣③石垣④田辺家住宅(移築)

 

訪問日:2019年7月

 

所在地:福井県三方郡美浜町

 

 武田金次郎は嘉永元年(1848)水戸藩士・武田彦衛門正勝の子として生まれた。祖父は天狗党(水戸藩内外の尊王攘夷派)の首領・武田耕雲斎、母は藤田東湖の妹。

 

 元治元年(1864)天狗党の乱に祖父や父らとともに参加するが、12月17日、越前国新保宿(敦賀市)で加賀藩に降伏し、天狗党員828名は捕らえられ、鰊倉に監禁された。

 

 元治2年(1865)2月4日、耕雲斎・彦衛門ら幹部24名が斬首されたのを始まりに2月23日までに352名が処刑された。彦根藩士らが志願して首斬り役を務め、井伊直弼の敵を討ったという。

 

 天狗党降伏の報が水戸に伝わると、水戸藩では天狗党と対立してきた保守・門閥派の諸生党・市川弘美が実権を握り、天狗党関係者を徹底的に処罰した。

 

 3月25日、耕雲斎や従兄・藤田小四郎ら4人の首級が水戸で晒された。また同日、耕雲斎の後妻・延子(40)、金次郎の弟・孫三郎、金四郎、熊五郎、妹・とし(11)や幼い耕雲斎の息子らが斬首された。

 

 金次郎ら110名は遠島・追放などの処分を科され、小浜藩預りとなっていたが、慶応2年(1866)将軍・徳川家茂が死去し、慶喜が将軍に就任すると、配流は中止されて謹慎処分に変更された。

 

 安政の大獄当時、京都所司代を務めた前藩主・酒井忠義が一橋派を弾圧したことから、慶喜の報復を恐れた小浜藩主・酒井忠氏は金次郎らを佐柿の屋敷に移して厚遇した。

 

 慶応4年(1868)戊辰戦争が勃発すると、金次郎らは長州藩の支援を受ける本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討の勅諚を取り付けると水戸に戻り、朝敵となった諸生党の家族らを悉く処刑した。

 

 水戸を脱出した諸生党は奥羽越列藩同盟の傘下に入り、北越戦争や会津戦争で新政府軍に敗れると、10月、水戸城下に攻め寄せたが天狗党が勝利した。(弘道館戦争)。

 

 続く下総国松山戦争で諸生党を壊滅させ、明治2年(1869)4月、東京に潜伏していた市川を捕え逆さ磔の極刑に処した後も、諸生党の係累に対する報復・私刑は続いた。

 

 当初尊王攘夷運動を主導した水戸藩だったが、これらの藩内抗争により、多くの人材を失い、明治新政府において水戸藩出身者は重要な地位に就くことはなかった。

 

 金次郎は版籍奉還後に藩の権大参事を務めるが、廃藩置県後は経済的に苦しくなり、やがて病に斃れ明治28年(1895)48歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

小浜藩 佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)跡

 

佐柿概略
 美浜町佐柿は、戦国時代の山城である国吉城址(美浜町指定史跡)の麓に位置しており、現在も江戸時代より続く町並み風景や自然景観など、至る所で歴史の息吹を感じることができる。
 天正11年(1583)、国吉城主となった豊臣家臣の木村常陸介定光は、それまで国吉城麓の小集落でしかなかった佐柿の整備に着手した。椿峠を越えて西に進んでいた丹後街道を、国吉城麓を経由するよう南に付け替え、通りに面して100軒余りの町家が立ち並ぶ城下を整備した。また、関ヶ原の合戦後に若狭国の領主となった京極高次は、町の北側に関所を設けたほか、慶長9年(1604)の大火で灰燼に帰した佐柿の復興に取り組んだ。
 国吉廃城後の寛永11年(1634)閏7月、小浜城主となった酒井忠勝は、領内の敦賀や佐柿に町支配のための奉行所や、藩主が領内巡検の際に休息所とする御茶屋屋敷を設置した。佐柿は、以後町奉行支配の下で丹後街道の宿場町として栄え、幕末には小浜藩預かりとなった水戸天狗党の残党を収容する准藩士屋敷を奉行所近くに設けるなど、敦賀とともに小浜藩東部の政治、経済の中心として繁栄した。

◆佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)跡
 この辺りは、小浜藩の佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)跡で、享和3年(1803)に「佐柿陣屋」と改められた。当地には現在、近世城郭に見られるような見事な石垣や池泉跡、水路跡などが残されている。
 存在した建物の様相は明らかでないが、19世紀初頭の村絵図には、現在する石垣付近に「御茶屋御門」の位置が示されているほか、明治初頭の村絵図には、石垣上の塀や門、大きな書院建物の姿が描かれている。『雲濱鑑』(文化4年・1807)によれば、屋敷地坪は2043坪で、建物(御屋形、台所、長屋、番所など)163坪、他に表門1ヶ所、露除3ヶ所、奉行所役宅47坪、制札場、女留番所と木戸門や柵が建てられていた。これらの建物は廃藩後に破却されたが、一部は移築され現存している。