若狭 熊川陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①前川②池跡③熊川宿④熊川宿​​​​​​​⑤熊川宿​​​​​​​⑥番所

 

訪問日:2019年7月

 

所在地:福井県三方上中郡若狭町

 

 永禄12年(1569)沼田一族を熊川から駆逐した松宮清長は熊川城に息子の左馬亮を入れ、元亀元年(1570)織田信長の越前攻めの際に宿所として熊川城を提供した。

 

 ちなみにこの時には徳川家康も同行しており、熊川城の麓の得法寺には「徳川家康腰掛けの松」なるものが伝わっている。

 

 清長は国吉城主・粟屋勝久らとともに元亀4年(1573)再度の越前攻めにも参陣し、天正3年(1575)の越前一向一揆討伐戦にも丹羽長秀の与力・若狭衆として参戦した。

 

 その後の消息は不明だが、本能寺の変が勃発した天正10年(1582)、主君・武田元明とともに明智光秀に与して没落したものと思われる。

 

 天正15年(1587)長秀の子・丹羽長重に替わり若狭国守となった浅野長吉(長政)が天正17年(1589)近江と若狭を結ぶ若狭街道(鯖街道)の国境近くに熊川宿を整備した。

 

 その後、若狭の領主は文禄3年(1594)木下勝俊(長嘯子)、慶長5年(1600)京極高次、寛永11年(1634)酒井忠勝と移るが、熊川宿は鯖街道随一の宿場町として栄え明治維新を迎える。

 

 その後は鉄道の開通など時代の変化とともに街道は衰退し、熊川宿には古い町並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

熊川陣屋跡

 

 若狭の領主であった京極高次は、ここに領主が休憩するための施設として茶屋を設けた。その後、熊川陣屋と名が改められ、小浜藩の町奉行所がおかれた。廃藩により廃止されると、明治以降は小学校の敷地となった。