改)備前 三石城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①大手門外側

イメージ 2②大手門内部

イメージ 3③二の丸

イメージ 4④本丸

イメージ 5⑤堀切

イメージ 6⑥遠景

 

訪問日:2014年5月

 

所在地:岡山県備前市

 

 浦上村宗の前半生は判然としない。祖父・浦上則永の弟で、赤松政則による赤松氏再興の功労者・赤松則宗の養嗣子・赤松祐宗の跡を継いで当主になったと思われる。

 

 則永は嘉吉元年(1441)嘉吉の乱で幼い嫡男・浦上宗助(村宗の父)ら一族を残したまま出奔して行方知れずとなり、宗助は赤松氏再興後も不遇をかこっていた。

 

 文明17年(1485)山名氏らとの戦いで則宗の子の浦上則景・則国兄弟が相次いで討死すると、則宗は細川京兆家家宰・安富元家の子・祐宗を養嗣子に迎えた。

 

 明応5年(1496)赤松政則が急死し、則宗らの推挙で婿養子・赤松義村が家督を継いだ。これを後見した則宗は文亀2年(1502)三石城で死去し、祐宗が家督を継いだ。

 

 永正14年(1517)成長した義村は村宗・小寺則職を宿老とし、櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親の3人を奉行とする体制を布き、村宗から実権の奪還を図る。

 

 義村・則職らと対立した村宗は出仕差止を命じられ、永正15年(1518)三石城に退去、弟の香登城主・浦上宗久や従弟の浦上村国は義村に味方した。

 

 永正16年(1519)義村に三石城を包囲されるが、家臣・宇喜多能家の活躍や、金川城主・松田元陸の援軍によりこれを撃退した。

 

 さらに永正17年(1520)には則職や村国らが攻め寄せるが、大将・則職を返り討ちにして播磨に逆襲し、義村を隠居させて8歳の嫡子・赤松政村(晴政)に家督を継がせその後見人となった。

 

 永正18年(1521)義村が庇護する足利亀王丸(11代将軍・足利義澄の長男、後の12代将軍・足利義晴)擁して挙兵するが村宗はこれを破る。

 

 村宗は和睦に応じた義村を捕縛し播磨室津に幽閉して亀王丸を奪い、その後義村を暗殺する。同年末、管領・細川高国に迎えられた亀王丸(義晴)は将軍に就任する。

 

 大永7年(1527)桂河原の戦いで細川晴元方に敗れた高国は義晴を伴って近江に逃亡、高国は伊賀・伊勢・備中・出雲など各地を巡って援軍を要請するが応じる者はなかった。

 

 その中で村宗は要請に応じ、成長し対立していた政村と和睦して挙兵、享禄3年(1530)晴元方の播磨三木城主・別所就治を降して播磨を平定し、さらに摂津に侵攻した。

 

 しかし、享禄4年(1531)摂津天王寺において援軍のはずの政祐(政村から改名)に背後を襲われて討死、高国も尼崎に逃走したが発見され自害した(大物崩れ)。

 

 

以下、現地案内板より

 

岡山県指定史跡  三石城    昭和54年3月27日指定

 

 三石城は元弘3年(1333)地頭の伊東氏により築かれたと「太平記」にある。その後、浦上宗隆が備前守護代として入り、以後浦上氏の拠点となった。浦上氏は、村宗の代に備前東部から播磨西部にかけてを領するまでになったが、その死後領地が二分され、備前東部を受けついだ宗景が享禄4年(1531)天神山城へ移り、三石城は廃城となった。
 城内には、当時の遺構が良く残っており、頂上部の本丸(標高291m)から南西に二の丸・三の丸がのび、本丸の北側には堀切をはさんで独立の曲輪がある。本丸の南西側面には大手曲輪が設けられ、当時の石垣が良く残っている。二の丸・三の丸の北側にそって馬場があり、一段下の大手曲輪との間に池が設けられている。城内には7基の井戸があり、特に三の丸の南にある井戸は「千貫井戸」と呼ばれ常に涸れることがない。また、城の外郭線の山陽道側には2箇所の見張所があり、外敵の侵入を監視するようになっている。
 城内から、当時使われていた備前焼大甕や小皿片が出土しており、その一部が備前市歴史民俗資料館に展示されている。