改)播磨 龍野城(古城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大手道石垣

イメージ 2②大手道石垣

イメージ 3③本丸西北隅石垣

イメージ 4④本丸

 

訪問日:2004年3月

 

所在地:兵庫県たつの市(旧龍野市)

 

 赤松政秀は赤松村秀の子として生まれた。村秀は祖父・赤松則貞を殺害して家督を継いだとも、赤松政則の庶子ともいわれる。天文10年(1541)父の死去により家督を継ぐ。

 

 永禄元年(1558)赤松氏宗家では重臣の小寺政職や浦上政宗らが赤松晴政を追放して嫡子・赤松義祐を擁立すると政秀は晴政を龍野城に保護した。

 

 この時に同行してきたのかも知れないが、晴政の娘を娶って、広貞(生年不詳)・広英(永禄5・1562年生)が生まれている。

 

 永禄7年(1564)政宗の嫡子・清宗と黒田職隆の娘との婚礼の日に室山城を襲い、政宗・清宗父子を討ち取る。

 

 永禄8年(1565)晴政が死去すると義祐と和睦するが、政秀はその後も利神城を無断で攻撃するなど、宗家を無視した行動を続ける。

 

 永禄10年(1568)支援を求める足利義昭の使者が来ると政秀はこれと誼を通じる。永禄11年(1569)義昭は織田信長に擁立され15代将軍に就任する。

 

 政秀は娘のさご(母親不明)を侍女として義昭のもとに向かわせると、義祐は政職にさごの身柄拘束を指示し、政宗の弟で備前天神山城主・浦上宗景に龍野攻めを要請した。

 

 政秀の救援要請に応じた信長は池田勝正ら摂津衆や三木城主・別所安治らを派遣し、備前では宇喜多直家が宗景に対して謀叛を起こした。

 

 永禄12年(1569)さごは無事京都に辿り着き、優位となった政秀は逆襲に転じ、義祐・政職は置塩城に籠り、姫路城主の黒田職隆・孝隆(官兵衛)父子が寡兵でこれを迎え撃った。

 

 圧倒的に有利な戦いで政秀は黒田父子に敗れる(青山・土器山の戦い)。力を失った政秀は宗景に降伏し、元亀元年(1570)宗景により毒殺されたという。

 

 嫡子・広貞も間もなく死去して広英(広秀・斎村政広とも)が家督を継いだ。さごは天正3年(1575)広英が信長に謁見した頃、信長の養女となり後の関白・二条昭実に嫁いだ(側室か)。