改)下総 古河城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸跡碑

イメージ 2②土塁

イメージ 3③諏訪郭土塁

イメージ 4④渡良瀬川

イメージ 5⑤移築乾門(福法寺)

 

訪問日:2010年1月

 

所在地:茨城県古河市

 

 足利政氏は寛正3年(1462)初代古河公方・足利成氏の長男として生まれた。母は簗田満助の養女(姪)・伝心院、同母弟に足利義綱(上杉顕実)。

 

 成氏は文明10年(1478)関東管領・上杉氏と、文明14年(1482)には幕府と和睦し、政氏は将軍・足利義政から一字を賜った。

 

 長享元年(1487)山内上杉家の上杉顕定と扇谷上杉家の上杉定正との間で長享の乱が発生、最中の延徳元年(1489)父から家督を譲られ、2代古河公方に就任する。

 

 政氏ははじめ扇谷上杉家を支持したが、明応3年(1494)伊勢宗瑞(北条早雲)と結んだ定正が武蔵高見原で対陣中に死去すると山内上杉家支持に転じる。

 

 定正の跡を継いだ甥の上杉朝良は駿河守護・今川氏親に支援を求め、氏親は伊豆を平定した重臣・伊勢宗瑞を派遣した。

 

 永正元年(1504)武蔵立河原で顕定とともに朝良・氏親・宗瑞の連合軍と戦い大敗するが、その後反撃に出た顕定が永正2年(1505)河越城を囲み朝良を降伏させる。

 

 同年、政氏は弟・義綱を顕定の養子に入れ上杉顕実と改称させる。しかし永正3年(1506)嫡男・足利高基と公方の座を巡って対立し、顕定が調停して和解する。

 

 永正7年(1510)顕定が越後で討死すると顕実が家督を継ぐが、もう1人の養子・上杉憲房が高基を味方として政氏・顕実に対抗、伊勢宗瑞との戦いを始めた朝良が調停に奔走するが失敗に終わる。

 

 永正9年(1512)武蔵鉢形城に拠る顕実が敗れて政氏を頼り古河城に逃亡、憲房が家督を継ぎ、永正12年(1515)顕実が病死すると関東管領に就任した。

 

 さらに永正15年(1518)還俗した次男・足利義明が下総小弓城を奪って小弓公方を称し独立を宣言する。

 

 同年、政氏は高基と和睦、隠居して道長と号し、古河城を去って朝良を頼り武蔵久喜に引退した。永正16年(1519)その館を寺として甘棠院を創建した。

 

 享禄4年(1531)久喜で死去、70歳だった。

 

 

以下、現地案内板より

 

古河市指定文化財・建造物 
 旧古河城城門

 

昭和43年4月1日指定
古河市中央町3丁目9番8号

 

 この門は江戸時代の旧古河城内二の丸御殿の入り口にあって、乾門と呼ばれた門である。これを明治6年(1873)の古河城取り壊しの際、福法寺の檀家が払い下げを受けて同寺に寄進・移築した。
 この門の構造は平唐門と呼ばれる型式で、両側には袖塀がつき、向かって右側に潜戸がある。かつての古河城の姿を現在に伝える数少ない遺構として貴重である。

 

平成20年1月 古河市教育委員会