尾張 桜中村城(富部神社) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①富部神社

イメージ 2②富部神社

イメージ 3③桜公園

 

訪問日:2014年5月

 

所在地:名古屋市南区

 

 桜中村城の所在地は富部神社説と桜公園説の2説がある。ネット上ではどちらかといえば桜公園説のほうが多数派か?どちらかわかるはずもなく両方撮っておいた。

 

 松平忠吉は天正8年(1580)徳川家康の4男として浜松で生まれた。後に徳川幕府2代将軍となる徳川秀忠は同母兄である。

 

 天正9年(1582)東条松平氏の松平家忠が死去するとその家督を継ぎ、松平忠康として三河東条1万石を領し、天正10年(1582)には駿河沼津4万石に転じる。

 

 家康関東移封後の文禄元年(1592)武蔵忍に10万石を与えられて元服、松平忠吉と改名した。

 

 井伊直政の娘・政子を正室として慶長2年(1597)には長男(梅貞大童子)が生まれるが、生後16日後に早生した。これが唯一の実子であった。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは直政の後見のもと初陣を果たし、福島正則と先陣を争う。直政・忠吉隊は島津隊を追撃して島津豊久を討ち取る。

 

 忠吉はこの時の激闘で直政とともに負傷する。戦後、尾張清洲52万石を与えられるが、病に冒されて慶長10年(1605)には危篤となるが一度は蘇生する。

 

 慶長11年(1606)富部神社の霊験の報恩として本殿・祭文殿・回廊・拝殿を建立し、神宮寺として天福寺を建立し社領100石を寄進した。

 

 しかし病は完治しておらず、慶長12年(1607)江戸に下向し、家康・秀忠に面会した直後に28歳で没した。寵臣であった小笠原吉光らが殉死している。

 

 尾張52万石は当時7歳の異母弟・徳川義直が継いだ。

 

 

以下、現地案内板より

 

富部神社
 
 当社は慶長8年(1603)津島神社の牛頭天王を勧請したもので、「戸部天王」とも「蛇毒神天王」とも呼ばれていた。牛頭天王は神道だけでなく、仏教、陰陽道でも奉られる神で、神道では病魔を自在に操る神として、仏教では病魔を操り四季を掌る神として、大切に奉られている。

 

 主な神は素戔嗚尊(牛頭天王)で明治11年(1878)になって田心姫命、瑞津姫命、市杵島命、菊理姫命の四神を合祀した。

 

 清洲城の城主松平忠吉(徳川家康の第4子)は当社の霊験あらたかなるを知り、病気平癒の祈願をしたところ、快方に向い日ならずして回復したといわれその恩に報いるため慶長11年(1606)社領として100石を与え、本殿、祭文殿、回廊を建て、神宮寺として天福寺(真言宗智山派)を興した。(天福寺は明治政府の神仏分離令により廃寺この時、神社では牛頭天王を同一神とされる素戔嗚尊の名を借り存続される。)

 

 回廊は改築されているが、本殿と祭文殿は造立当時のものである。本殿は一間社流造、桧皮葺で、正面の蟇股、破風、懸魚、等桃山時代の建築様式をよく伝えており、昭和32年(1957)国の重要文化財に指定された。

 

 祭文殿は同脚門形式、回廊は切妻造左右四間の複廊で桧皮型銅板葺である。平成8年(1996)名古屋市文化財に指定される。

 

 境内の山車蔵には、享保12年(1727)作といわれる高砂車山車が納められている。この山車は車体が大きく、三階の上に更に高くいわゆる高砂車を象徴する大きな松の木を背景にして屋形を据え、その前に尉と姥の人形が置かれている。昭和48年(1973)名古屋市文化財に指定される。江戸時代、旧暦6月12日の例祭日には金繍の幕を巡らし、氏子が拳って曳行したが近年老朽化が著しく、10月の例祭日には蔵の中で組立られ、祭の象徴となっている。