①古戦場址
②古戦場碑
③激戦地跡
訪問日:2014年5月
所在地:愛知県一宮市
永禄元年(1558)5月、美濃の斎藤義龍(32)の支援を受け父・織田信安と弟・織田信家を追放し、尾張岩倉城に復帰した織田信賢と尾張の最高実力者である織田信長(25)が7月12日、岩倉城近くの浮野で戦い、信長が勝利した。
信長軍2千に対し、信賢軍は3千と当初兵力では信賢の方が上回っており激戦となったが、信長の姉婿で犬山城主の織田信清の1千が信長の援軍として到着すると戦況は一気に信長軍有利に傾き、信賢軍は壊滅状態となり岩倉城へ敗走した。
信長方によると信賢軍は1200余の兵が討死した。信長軍の損害については明らかにされていない。信賢はかろうじて無事岩倉城に帰ったようだが、復帰したばかりでの手痛い敗北となった。
信長は駿河今川氏との対立が激化する中での同族との戦いに勝利し、一息ついたが、尾張国内にまだ火種を残していることに変わりはなく厳しい状況は続く。
以下、現地案内板より
浮野合戦関係略年表(桶狭間の戦いまで)
応永7年(1400)
この頃、斯波義重、尾張守護となる。
宝徳3年(1451)
尾張守護代の織田敏広、父郷広と守護代職を争う。
応仁1年(1467)
応仁の乱起こる。斯波氏、義敏は東軍、義廉は西軍に属し対立。
文明10年(1478)
東軍斯波氏の代官織田敏定、尾張に入国し清洲城に入る。清洲城の敏定を織田敏広・斎藤妙椿が包囲攻撃(清洲城攻防戦)
文明11年(1479)
1月、両織田氏和睦。清洲城の織田氏は下郡(海西・愛智郡)を、岩倉城の織田氏は上郡(葉栗・丹羽・中島・春日井郡)を統治、尾張の分割支配はじまる。
天文3年(1534)
5月、信長、生誕。父は清洲方重臣織田信秀。
天文6年(1537)
2月、豊臣秀吉、生誕。
天文11年(1542)
12月、徳川家康、生誕。
天文12年(1543)
8月、ポルトガル人、種子島に漂着し鉄砲を伝える。
天文17年(1548)
信秀、斎藤道三と和睦。のち道三の娘、信長に嫁ぐ。
天文18年(1549)
7月、ザビエル、キリスト教を伝える。
天文20年(1551)
この頃、信秀病没、信長家督を嗣ぐ。
天文22年(1553)
閏1月、平手政秀、信長の素行を諫め切腹。
4月、信長、道三と尾張富田聖徳寺で会見。
弘治1年(1555)
4月、信長、叔父信光と謀り守護代織田彦五郎を殺害、清洲城を奪う。
弘治2年(1556)
4月、道三、子の義龍と長良川畔で戦い敗死。
永禄1年(1558)
5月、岩倉城主織田氏、信長に反旗をひるがえす。信長、岩倉へ進発、丹羽郡浮野に陣をしき、犬山城主織田信清の助勢を得て約半日にわたる大激戦のすえ岩倉勢を撃破(浮野合戦)。
永禄2年(1559)
2月、信長上洛、将軍足利義輝に拝謁。
3月、信長、岩倉城の織田信賢を追放、ほぼ尾張を統一。
永禄3年(1560)
5月、桶狭間の戦い。信長、今川義元を倒す。
この頃、斯波義重、尾張守護となる。
宝徳3年(1451)
尾張守護代の織田敏広、父郷広と守護代職を争う。
応仁1年(1467)
応仁の乱起こる。斯波氏、義敏は東軍、義廉は西軍に属し対立。
文明10年(1478)
東軍斯波氏の代官織田敏定、尾張に入国し清洲城に入る。清洲城の敏定を織田敏広・斎藤妙椿が包囲攻撃(清洲城攻防戦)
文明11年(1479)
1月、両織田氏和睦。清洲城の織田氏は下郡(海西・愛智郡)を、岩倉城の織田氏は上郡(葉栗・丹羽・中島・春日井郡)を統治、尾張の分割支配はじまる。
天文3年(1534)
5月、信長、生誕。父は清洲方重臣織田信秀。
天文6年(1537)
2月、豊臣秀吉、生誕。
天文11年(1542)
12月、徳川家康、生誕。
天文12年(1543)
8月、ポルトガル人、種子島に漂着し鉄砲を伝える。
天文17年(1548)
信秀、斎藤道三と和睦。のち道三の娘、信長に嫁ぐ。
天文18年(1549)
7月、ザビエル、キリスト教を伝える。
天文20年(1551)
この頃、信秀病没、信長家督を嗣ぐ。
天文22年(1553)
閏1月、平手政秀、信長の素行を諫め切腹。
4月、信長、道三と尾張富田聖徳寺で会見。
弘治1年(1555)
4月、信長、叔父信光と謀り守護代織田彦五郎を殺害、清洲城を奪う。
弘治2年(1556)
4月、道三、子の義龍と長良川畔で戦い敗死。
永禄1年(1558)
5月、岩倉城主織田氏、信長に反旗をひるがえす。信長、岩倉へ進発、丹羽郡浮野に陣をしき、犬山城主織田信清の助勢を得て約半日にわたる大激戦のすえ岩倉勢を撃破(浮野合戦)。
永禄2年(1559)
2月、信長上洛、将軍足利義輝に拝謁。
3月、信長、岩倉城の織田信賢を追放、ほぼ尾張を統一。
永禄3年(1560)
5月、桶狭間の戦い。信長、今川義元を倒す。
平成5年7月